2018年06月08日

よし、できる


「よし、自分ならできる」


そう思えたところが全ての上達のスタートだとしたら

どんなスキルの人もそうだとしたら

まずそこに立ってもらうためのフィールドをつくり、そう思えるようなプログラミングと投げ掛けをしないと、どんな時間も意味がないとなる。


それを楽しんでつくる教師。

そんな楽しそうな教師の背中を見て、自分のやるべき取り組みと進み方を知っていく。


これが今この時代にするべき進化だと思う。


最近までのように、自分がかつて学んだこと、経験したことを上意下達ならぬ過去意今達のように伝えればいいだけの時代ではない。

60才から上と、社会を構築しつつある40才以下の世代に、僕は明らかにかなりのジェネレーションギャップを感じています。

つい最近まで、もう少しグレーなゾーンが存在したし(ブラックとだって共存していた)、若者も年齢を重ねれば同じようになっていく部分も多かった。

しかしネットはじめ社会がクリアーになる環境変化が速すぎて、明らかに生理的根幹以外の部分で、とくにコミュニケーションスタイルはお互いに求めるものが大きく変わりつつある。


1ヶ月近く大学を舞台に国民全体の興味の対象となった事件、社会現象にまでなった問題は、日本中が変わろうと努力を続けている中で「まだそんなことを」と、ジェネレーションギャップをもあらわにしたものだが、実は僕はもう少し年長者の方を擁護する意見もあるのかと思っていた。

しかしかなり長きに渡り話題になったことと、社会が若い世代の謝罪を救おうとし年長者の老害を断罪したことで、はっきりわかったことがある。


それは私たちの社会が進もうとしている方向。明らかに新しい価値への必要性を声高に叫んでいる。


より多くの年長者は、思ったより、変わろうとの努力を実践しているようだ。それは以前の人が先人のようになっていけばよかったのとは違い、自分の過去を否定する要素もある努力。

誰も言わないが、僕はそんな年長者は褒められてしかるべきだと思っています。立派だと思う。

だから今回の主役たちは余計糾弾された。

今の60才から上の世代は基本謝るのが苦手。昭和一桁の世代なんかは、自分が間違っていても一切謝らない人もたくさんいた。

逆に今の若者は、謝るのは全く平気な世代。謝れないことがよくわからない世代。

それくらい、自分の責任とか心と表現の繋がり方は変わっている。



進化せよ



やはりそう突きつけられている。この高いハードルも

「よし、自分ならできる」

そう、信じることから駆け出せる。


川越へ

posted by take at 19:32| 活動報告

2018年06月07日

広き視野こそを


師として


若い人には、とにかく自身で選択し、自身で決断することの必要性を説き、いろんな経験ができるよう導くべきだ。

出会う価値観も、それなりに多岐に渡っていた方がいい。


固まったスタイルで生きる私たち大人は、自分の型に反するものを若者が選びそうになったとしても、余程の邪道でない限り、決してその道筋を否定してはならない。

とにかくあれこれ様々見聞き経験した末、最後は本当に自分に合ったものを認識し、そこから自分のスタイルを確立していくべきだ。

様々吸収するうちに、その中にある共通した絶対真理と、あれもいいがこれもよく、実は尖って反対側に出っ張っているようなものだから素敵だということに気づいていくだろう。

その際は様々な魅力に揺れ動き、悩み、最後はこれだなとやはり自身で決断することによって、初めて過去の学びに真の敬意をはらうことができる。


若者が興味関心をもつ力はなんとも素晴らしい。若者の考察する力とは、たとえ経験不足、知識不足により年長者のそれよりぶれていようが、本当に素晴らしいものだ。


私たちはそれを可能性と呼んでいるが、大人こそが、そのはっきりしてはいない未来を不安に感じず、希望こそをもって信じるべきだ。

視野の広さが最後は芯の強さに繋がり、そして人生の学びへの敬意へとなる。



「Live as if you were to die tomorrow. Learn as if you were to live forever.明日死ぬかのように生きよ。永遠に生きるかのように学べ」
(マハトマ・ガンジー)

この言葉の真意は幅広いが、明日死ぬなら、今日は今までと違うものを学べ。永遠に生きるから、あらゆる学びの旅に出ろとも言っているように感じる。


若者には、師として自分のスタンスを伝えつつも、可能性こそを旅させるのだ。

自分の生徒こそを、決して囲ってはならない。


ジパング

posted by take at 20:37| 活動報告

2018年06月06日

生きていることの立派さ


那覇を生きる人も、そして東京の雑踏を生きる人も、皆様々な事情を抱えて、自分だけの心とともに歩んでいる。



いろんな悩みと

いろんな切なさと

ささやかであっても幸せと



心が曇り、うつむきがちに歩いてしまい、幸せどころか平穏な気分がどんなのだったか思い出せなくなっていたりすることもある。

今目の前に立つ人を羨んだりすることも。

でもそんな人も、実はいろんな切なさと生きている。人はそれを外には出さないし、笑顔で話していても心は泣いていたりもする。


どの人も、諦めてしまったこともあったりする。

涙も出なくなるくらい辛くなったことも。

泣いたり笑ったりしながら、無理もしながら生き抜いている。

感傷と共にたった今を生きている。

実は自分だけじゃない。みんなそんな経験から逃れられず生きている。


辛いことや苦しくなるようなことは、確かに私たち人間に与えられた試練かもしれないけど、結果それをきちんと越えながら時を刻んでいる。

心はきちんと刻んでいっている。

だから今の辛さを過去の経験とし、笑顔で暮らせる日々は必ずやってくる。


垂れた頭を上げ空を見上げると、美しい青空があったり、地表の感情とは解離したような輝きで星が煌めいてたりする。

あらためて見つめてみたら、心が持ち上がるかもしれない。

それすらも、褒められてしかるべき価値ある頑張り。

大丈夫、本当によく頑張ってるよ。


レッスン、大塚へ

posted by take at 06:59| 活動報告

2018年06月05日

那覇景色


現代は「あだ名禁止」の小学校が増えつつあるそう。いじめに繋がる可能性があるからとのこと。友達同士も皆、苗字にさん付けで呼ぶらしい。


「沖縄じゃ無理ですね。僕がいたクラス、比嘉さんだらけでした。10人くらいは普通にいるし」


そんな那覇。暑いっちゃあ暑いが、首里の町を上半身裸の若者が歩いている。

東京だと騒ぎになるだろうなあ。警察も来そう。

しかしここ沖縄では全く違和感がない。僕が半裸君を見たのは初めてだが、でも驚きもしない自分に考えてみたら驚いていいくらいだが、

ふ〜ん…暑いもんね

くらいのテンションである。


「結構いるの?裸の人」

「おじさんとかならいます。若い人は……」

「でも違和感ないね」


周りを歩く人も特に注視している様子もなく、見事に町に溶け込んでいる日焼けした裸の上半身。


やはりやまとんでの常識や時代の流れとは違う、琉球だけのルール、必然、そして景色があるようだ。


沖縄県芸レッスン

posted by take at 21:21| 活動報告

2018年06月04日

なんちゅう話やねん!


ナンかライスか聞くのはインド人店員の仕事なんです。

そんなん平成の常識である。

「ナンですか?」

とルゥ暢な日本語で聞かれ

「やーからパターチキンゆーとるやろ!」

とブチキレる人はそもそもカレーにむいてないしインドに足を向けて寝てはならない。大体チキンハートやから威圧的なわけで、バター!!といてこましたらええわけである(?)


また、店員も店員で、ミスター長嶋さんが来店した場合

「う〜〜ん、なんでしょう」

と言ったからといってナンを注文したわけではなく、考え中の可能性もある。広い心でゆっくり待ちましょう。


また「ナンですかライスですか?」と聞いて

「なんでやねん!」

と返ってきた場合、これまたナンにするわーという意味かもしれないし、質問の意味がわからず半ギレしているウェスタンピーポーの可能性もあるので、これまたインディアナ上手な精神で

「お客様、ごはんにしますか?薄くてやたらデカイ三角形のバターぬったパンにしますか?」

と改めて丁寧に聞いてあげましょう。りゅうちぇるな日本語ならなおよろしさー。


沖縄のインドカレー屋(芸大近く?)で働く場合は、お客さんが

「なんくるないさー」

と言ってても、ナンが来ないと言ってるわけではない場合もあるわけで、優しさ泡盛(大盛り)で見つめましょうねー(語尾へいたん)。


日本語むずかシーサー。


沖縄県芸レッスン

posted by take at 08:55| 活動報告