2018年05月28日

涙の価値


「ア・ソング・フォー・ジャパン」が震災の悲劇と共にある音楽ではないとして観賞した場合、「いいなあ」と思っても、涙が溢れてくるとは限らないと思っています。

震災のもたらした不幸を言葉として聞き、既に深刻かつ辛さを少なからず刺激された上で曲を聞き始めるというのが、涙への道筋になっていると思うのです。


もしかしたら、自分の日常の悲しみと被っての涙という方もいらっしゃるかもしれない。

ただやはり一人の人間として、旅立った二万人の方々の無念と自らが感じる無念、また残された人々の長きに渡る非日常を強いられる現実に対する沸き上がる不憫に感じる気持ちが、自分に内在する「悲しみ」と強く融合し、摩擦を生み、その振動が涙腺を刺激するのでしょう。


実は、大半の人が「ふくよかな思いやり」という素晴らしい感情をもっている。

被災地に対してだって、潜在的にありつづけている。

だって震災直後のあの灰色に包まれた日常を日本人は皆経験したわけだし、七年と二ヶ月経ったとはいえ、誰の記憶からも消えてなくなることはあり得ないはずから。

忘れたように日常を送るのは

「あんな辛いことは考えたくない」

との本能と

「被災地はきちんと復興して、皆さん大分幸せが戻ってきてるよね」

と信じたい気持ちが、目をふさぐことに繋がっているのだと思う。


ただ同時に、「そうではないのではないか」、当事者じゃないから理解が難しいが「やっぱり大変な日常が続いているのではないか」と皆薄々感じている。


そんな時に、「二万人の方が亡くなったのだ」「まだ震災は終わってはいない」と言葉で聞き


やはりそうだ


と確認し、悲劇を想像させる短調、未来への希望を願う長調を聞くことによって、辛さからの思いやりが沸き上がり、涙として感情的になってしまう。忘れたように日常を送る自分の、強い自戒の念に支配される人もいるだろう。


これからでも何かできることはないか、と思う人もいるだろう。

それが一過性で留まるかもしれないし、行動力に繋がる人もいるはず。


そうした方がよいのではないか、自分がここまで感情的になれるのかと強く思えた人は


聞いてよかった


となるのだろう。


N響豊田公演

posted by take at 11:01| 活動報告