2018年05月26日
地口たる思い
旧東海道、新馬場から北品川沿いに立つ街灯電柱毎に、地元小学生の書いた地口が貼ってあり、面白すぎて流し読みできず、なっかなか品川に着かない。弥次喜多も腹を抱えながら、品川宿にたどり着けない土佐。
地口(じぐち)とは、言葉遊びの一種で洒落とほぼ同じ意味をもつ。
まあ駄洒落ですね。落語においても話の終わりを地口で締めるのを地口落ちというらしいのですが、安易でもあるので落ちの種類としては低いものとみなされているよう。
初午祭に、行灯に地口とそれに合わせた絵を描いた「地口行灯」を飾る稲荷神社もあるとのこと。
これの小学生版です。
これがですねぇ、なかなかの天才っぷりに、日本の未来は明るく感じる僕を不安を感じる皆さん。
いくつがご紹介。
「会社に入れば社長に従え(郷に入れば郷に従え)」三年生
そのとーり!とーちゃんが出世出来ない理由を、三年生で既に正確に理解している怖さ。でも君も会社に入れば、反旗を翻して戦ったりするのさ。大抵は社長についていけばいいはずだが……
「河童の皿流れ(河童の川流れ)」四年生
河童くん今頃探しとんのやろねー、皿。なぜだか山瀬まみが……
「うに二つ(瓜二つ)」四年生
こ、これ、ひとりで食べていんですか?マジっすか!ま、マジでいいんすか!!!……あ”〜〜っ、僕のうにっ!!せんぱーいっ!!
「父も歩けば居酒屋にあたる(犬も歩けば棒にあたる)」四年生
これはもう哀愁さえ漂ってますね。妄想できるパターンはふたつ。グチグチ怒る母親に息子が「まあママ、そんなに怒んないでさぁ、パパも色々大変なんだからさあ。あんな社長(知っとんか!)に従わなきゃいけないんだからストレスも溜まるわけよ。居酒屋に寄るくらい勘弁してあげなよ」
か
ペロンちょ午前様ダンナの奥さんへの言い訳。「い、いやあにょね…オレがいざかやにぃに寄ったんぢゃないんだよ、ウィック!!歩いてたらねっ、居酒屋のほーから当たってきたわけさ……」
その後どうなったかは、神も知りたくもない。
「親も歩けばおとしあなに落ちる(犬歩けば再び)」四年生
これはなかなかに切れ味鋭い子供目線ですよ。「お父さんもお母さんも偉そうに言うけどさ、大人だから親だからって、緊張感なく過ごしてたら、どこに穴があるかわかんないんだよ。私だってまだ小学生だけど、色々思うことはあるんだしさ……」
ひ、ひぇ〜〜
「犬も歩けば恋におちる(もういっちょ)」四年生
まあ〜素敵っ。元ネタ同じでも、人生で目指すものの違いが既に小学生ではっきりと滲み出てるね。「犬でも歩けば恋に〜」になると独身男女への当て付けだし、「犬ですら歩けば〜」になると人間は泣くしかありません。ワーンワーン(TΔT)
「知識も積もれば天才となる(塵も積もれば山となる)」四年生
そのとーり!この子は凄いことがわかっている。
「立つ花嫁バージンロードを濁さず(立つ鳥跡を濁さず)四年生
美しいんですがー、この四年生女子はちょっと怖いね。
「言いわけより証拠(論より証拠)」四年生
ですね。してもムダ。最初から言いわけすんな。
「知るが仏(知らぬが仏)」四年生
はは〜っ、そのとーりでございますっ。もう言いわけも何もございません。四年生で既に仏の境地。
僕も負けじと
「いつまでもあると思うな俺のうに」
話に夢中になってないで、みんな食べてる時に食べとかないからー。
「急がば回れ右」
勇気を持ってリセットからの新しい行き方(生き方)を
「犬も歩けば足が棒」
パトラッシュのぼやき
最後に三年生の女子のピカソ級天才作品を
「花も鼻もある(花も実もある)」
チョキパア
N響練習
posted by take at 15:39| 活動報告
2018年05月25日
一枚の繪
『一枚の繪(いちまいのえ)』という月刊誌がある。
この雑誌発刊の理念、つまりは創刊者のこの『一枚の繪』という言葉に対する思いが、僕の心に強く響く。
今月号に掲載された、画家の鎮西直秀さんのエッセイに、そのメッセージがわかりやすく記されている。
【一枚の繪の創業者竹田厳道氏と面会した私は、オーラのほとばしるカリスマそのもののような氏の「『一枚の繪』は商売ではなく運動である。全国津々浦々の家庭に絵が飾られていくことこそが平和に繋がっていく」という言葉に心を大きく動かされました】
創業五十周年を迎えたとのことで、半世紀に渡りこの素晴らしい思いが絵画を生み、紹介し、多くの家庭へ飾られていくことを絶やさず続けているのでしょう。
ひとつの家族、ひとつの家庭の平和、その全ての集まりとしての日本の平和、ついては世界の平和は、そこに一枚の繪が飾られていることで成されるのではないか。
絵が好きとか興味がないとかを大きく超えて、経済だけでなく身体や心の健康、満たされる愛などによって、全ての家庭に一枚の絵が飾られてますように。
素晴らしい願いでありメッセージ。
僕は音楽だが、やはり「より身近に」と願いながら、自分の存在価値を確認しようとしていた時期がある。
自己表現としての音楽も絵画も平和あってであり、平和を願ってでもある。
そんな僕の家には、今家人の描いた絵がたくさん飾られている。
あって初めて、大切さも理解できるものである。
大塚へ、ジパング
posted by take at 15:34| 活動報告
2018年05月24日
素晴らしき沖縄
梅雨入りしているはずの沖縄は、からりと晴れた日が続くまさに空梅雨でした。
気温は高いが、細い島を吹き抜ける風が、日陰での快適さを助長。
どうしても東京の暑さと比べてしまう。
人の数が更に増えた感じの東京は、いろんなものがストレスと化し、都心に溜まってる。それが空気にも充満。もわっとしてずんときて。
それに比べて沖縄はいい。
そもそも素敵なこの細い島にいかほどの悪玉菌が存在しているのか疑問だが、それをも爽やかな風が吹き抜けてデトックスしてくれる。
「なんくるない」は無理やり言っているのではなく、少し沖縄を感じるだけで、どうかしてた問題が浄化され、心地よさと同化する。
そしてイタリアンカラーにも負けない、島に降り注ぐ太陽の光が映し出すオキナワンカラーは艶やかで艶やか。くっきりはっきりコントラスティな色の分離がホント美しい。
アカっ!キイロっ!ミドリっ!
これまた、人間の心には愉悦が沸き上がる。
東京の色のように、健全と不快がグラデーションのように混雑混在するのではなく、鳥たちがついばみたくなるような、甘く美味しい果物のようなあれやこれやの色たちが、町中に溢れている。
デトックスからの快感あふれる場所が私たちの日本にある。そんなことが心から誇らしく感じられる素晴らしき島。
それが沖縄なのである。
川越へ
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2018年05月23日
勝つとは
自分が勝つということは、負ける誰かの存在、その人の辛さの上での喜びを得ようということに必ずなる。
勝ち続けようとすると、現実的には延べたくさんの人の辛さを引き換えに、名声や喜びを得ることを目指すということになる。
負ける人がいるから勝つ立場に立てるわけで、それでも勝つことが素晴らしいと叫ぶのが人間だ。
冷静に考えたら、優越感といういやらしい感覚を否定しての勝利への欲望は成立しない。
そして現実的には、何をやったとしても常勝ということはあり得ない。
勝つことがあったり、負けることがあったり。私たちの人生、いかなる世代でも、常に必要なのは勝っても負けてもそのことから得るものがあり、それまでの自分が変われること、成長できることだろう。
いろんな経験からのみ、幅広い成長が得られる。このことこそを勝利と表現したい。
そう考えると、常に誰かを負かしてまで勝ちたいと思い続けるのは、幼稚な考え方ではないだろうか。真理にそぐってないし、成長ではなく停滞からの退化に繋がっているとも言える。
教育関係者は特にそうあるべきだと思うが、
勝負事に向かう時に「勝ちにいく」のは大事だと思うし、その為に努力することも知った方がいいのだが、
必ずしも勝つばかりではなく負けることがあり、
たとえどのような結果になっても悔やまないどころか、そこから学べるために今を全力で生きようと伝えることこそが、判断として根っこになくてはならない。
自分がそのとき勝てたとしても、圧倒的多数の敗者が必ずいて、以降彼らと共に社会を形成していくということをわかっていたい。
実は人間の本質としては平等であり、勝てたとしたら今回は自分の方が、このタイミングで認められただけ、負けた人がダメな取り組みだったとは限らず、非難すべきかどうかも怪しいので、悦びに包まれたときこそ不遜にならないようにと伝えるべきだ。
たとえさほどではない取り組みで負けた人がいたとしても、敗者の悔しさや悲しさ、むなしさを理解できるだけの人間的強さをもった勝者であるべきだとも、若者に要求できるだけ成熟したい。
結果至上主義、成果至上主義、そして勝利至上主義というものが存在するとしたら、一過性のものは常に泡のようなもの。本物とは、ひとりの人の人生が終焉を向かえるときに、本人が実感する可能性があることであり、そのときに周りが去り行く人の生きざまから感じることかもしれない。
人生の長い時間で、たった一度だけはかる時がくるもの。
僕にはまだわからないが、そのときには当人には結局それは存在せず、周りがどう感じようが、本人は身近な愛だけを反芻しながら、現世を去るだけだという気がする。
結局勝利なんて、それ以上でもそれ以下でもないものなのではないだろうか。
休日
posted by take at 23:08| 活動報告
2018年05月22日
ソルフェージュの取説
フランスはソルフェージュ大国と言われている。
ソルフェージュ能力に対する価値を高く意識し、難易度の高いものを要求、トレーニングしているイメージがあります。フランス人はじめ、パリやリヨンで勉強している連中、みんな耳いーんだろーなーみたいな。
東京芸大(藝大当時の呼称)も、入試のソルフェージュは難しかったが、苦手だった僕でも入れてもらえた。
当時附属高校でのソルフェージュは、大学の入試のそれよりレベルが高いと言われていた。今でもなのかな?
『ソルフェージュ(フランス語: solf ge)とは西洋音楽の学習において楽譜を読むことを中心とした基礎訓練のことである。音楽を学ぶ者すべてがその専門にかかわらず修めるべき基礎訓練全般を指す。ソルフェージュは楽譜を中心とした音楽理論を実際の音に結びつける訓練。これらの訓練を通じて得られる能力、特に読譜能力はソルフェージュ能力と呼ばれる』
沖縄の楽聖たちにも「ソルフェージュって何?」と質問したら、大体上記のような答えが。つまり、いい演奏するために内在していなければならない能力というイメージが皆にある。
ただ僕の知る人で、ソルフェージュ能力超高いのに、楽器は冴えず、音程もリズムも良くないプレイヤーがいた。
逆に、聴音新曲リズムトレーニングあまりやっておらず、実際ソルフェージュ能力高くないようなのに楽器が上手いのもいる。
今日書きたいこと、誤解されたくはないが、決してソルフェージュができなくてもいい、やらなくてもいいと言いたいわけではない。
僕が、音楽表現とソルフェージュの関係性として必要だと思うのは、持ち合わせている能力が高かろうが低かろうが「使う」ということです。
ソルフェージュを使うこと。つまりソルフェージュは「使うもの」ということ。
能力が高くても楽器がうまくいってない人は使えてないのだろうし、低い能力でも使えば表現の洗練に貢献する。
具体的にどう使うのかといえば、楽譜に対して正確なリズム、音程、長さ等をこの能力でもって探し、精査し、それこそを楽器でさらう道筋にすること。
使えてない人は、なんとなく思い込んでいる曖昧なリズムや音程や長さでさらい続け、正確なフォルムを知らないまま、不正確なフォルムを身体に染み込ませていっている。
実はわかってない、知らないんだから正確になりようがない。
ある楽聖が懺悔のように言う。
「自分は、さらいはじめとそれなりの期間さらった結果、吹けるようになることはあっても、根本的に変わらないずっと同じようなだめな演奏だと、ずーっと感じています」
それは途中で、ソルフェージュを使い「正確な演奏を探す」ということをしていないからだ。
少なくとも、リズムや長さを精査することはそれほど難易度は高くないし、ソルフェージュ能力も、それなりのもので可能なはず。
楽器がどんどん上手くなる人というのは、実は常に細かくソルフェージュ能力を使いながらトレーニングしたり曲をさらっている。本能でそれをやっている。
ある意味
「ただそれだけが差をつける」
と言っても乱暴ではない、そんな気がしてます。
沖縄県芸レッスン
能力高く、リズムも音程も完璧だが音色が残念という奏者も。響きを求め聞き取る力は、また別かと。
posted by take at 13:41| 活動報告