2018年05月31日

ランプの灯り


先日沖縄の楽聖がラインに送ってきたモーツァルト「魔笛」序曲に対するコメント

「最初のアダージョにある二分音符のfpは、ランプの灯りが灯るように。fの部分が瞬発的になりすぎず。しかししっかりpに落ちて」

と書きました。


今の若い人、ランプの灯りってわかるんやろか。


僕のイメージとしては、蛍光灯やLEDのように、スイッチパチッで瞬時につくような発光ではもちろんない。

昔のヨーロッパの田舎の村、夜も更けた暗闇の中、遠くの家の窓灯りがつくような感じ。

帰宅した住人がマッチでろうそくに火をつけ、ランプに点す(ともす)と、

ほわっ

と明るくなる。遠くから見てると、暗闇に灯りが登場するのに、少しだけゆっくりと時間がかかりながらまさに

ほわっ

と。そんなfpがいいんじゃないかと。


でも、現代にはランプがなかなか存在せず、パチッでピカッなので、やはり古い洋画を観るしかないね。

記録用としてもだが、演奏のイメージのためにも、昔を画くことって大事やね。



今日名曲アルバムの収録で、モーツァルトのレクイエムをやったのですが、テンポゆっくりの「ラクリモーサ」、8分の12拍子の符点8分音符、最初の二小節は合唱のニュアンスに合わせ毎回少しだけディミヌェンドをしようと話し合いました。

で、周りの世界観を充分に感じながら試していたら


「これも、ゆっくりと順番についていくろうそくの灯りのようだな」


と感じました。


気づくと、どちらもモーツァルト。

彼の音楽には、中世のやわらかい灯火が、やさしい光を放つようにあちこちに生まれてくるのです。


名曲アルバム、ジパング

posted by take at 14:30| 活動報告

2018年05月30日

男女百川柳錬磨(だんじょひゃくせんれんま)



受け入れた 愛していく気 満々よ



付き合えた 手に入ったと 安心し


女→男
「ごめんなさい」 あら引きさがる? その程度?


女→男
表情じゃ わからない?でも 今でしょう!


女→男
いつまでも あると思うな 私の好意


神→女
彼欲しい 最後はプライド 捨てなさい


神→女
告ってこぬ 相手のせいより 自己分析


神→男
かっこつけ 実は大抵 成果無し


神→女
決めつけず 意外に後々 いい男


女→男
夢語る 行動こそを 必携せい!


男→女
そりゃ見た目 ほんとは愛でたい 心根よ


女→男
カッコ悪? 思わないわよ いいじゃない


神→女
なんで?こそ ほだされる前に 突っ込んで


男→女
尽くされ過ぎ 驚く早さで 飽きてます


神→男
反旗より 彼女に従う 結果良し


神→女
彼人格 盲目なる前 周りの評価


神→男
女性こそ 愚かではないと 理解せよ


男→女
なぜ突然? たった今まで 上機嫌


女→男
わからない? 私は何度も こらえてた


男→女
笑顔目線 もしか私が 好きなのか?


女→男
失礼なく 笑顔で合わせる いくらでも


男→女
個人差よ それでも男は 男だよ


女→男
個人差よ それでも女は 女なの


神→男女
諦めず 沸いたら素直に 伝えるだけ


神→男女
はた目には みっともないだけ それが恋


休日

posted by take at 12:15| 活動報告

2018年05月29日

ラインレッスン


ちょっとワーカーホリックなところありまして。

一日休みは嬉しいし、そんな日は楽器さらってちょっと出かけたりも楽しいのですが。


今日は豊田から帰京するだけの予定。

朝気の向くままの時間にホテルを出て、名古屋まで約一時間、駅にて味噌煮込みうどんを食べて、その時に来た新幹線に乗って帰るみたいな。

自由気ままな旅。

それでも午後1時には帰宅。まんまぼーっとテレビ見てたら寝てしまう。

で夕方起きて

「結局なにもしないんかなあ」

と思ったら、沖縄県芸の楽聖からラインが。


お!送ってきたな。


実は、今年度から沖縄の楽聖とはラインレッスンをやっている。録音を送ってもらい、コメントを返す。1ヶ月後の来沖までに二回レッスンをやることにしている。

昨日は、今オーケストラの授業でやっている魔笛のセクション練習を自発的に送ってきた。もちろん直ぐにコメント返信。

そして今日は続けてダヴィッドやコプラッシュを各々送ってくる。連日に渡り勤勉な楽聖たちだ。


聞いて、感じたことを端的に文章にしレッスン。

正味20分

なんだか、きちんとやることやれた気がして、今日一日を生きた甲斐があるかなと(大袈裟)。

でもラインレッスンのおかげで、僕が社会と繋がれて、浄化された気持ちになるのです。

ありがたや〜〜


帰京

posted by take at 19:00| 活動報告

2018年05月28日

涙の価値


「ア・ソング・フォー・ジャパン」が震災の悲劇と共にある音楽ではないとして観賞した場合、「いいなあ」と思っても、涙が溢れてくるとは限らないと思っています。

震災のもたらした不幸を言葉として聞き、既に深刻かつ辛さを少なからず刺激された上で曲を聞き始めるというのが、涙への道筋になっていると思うのです。


もしかしたら、自分の日常の悲しみと被っての涙という方もいらっしゃるかもしれない。

ただやはり一人の人間として、旅立った二万人の方々の無念と自らが感じる無念、また残された人々の長きに渡る非日常を強いられる現実に対する沸き上がる不憫に感じる気持ちが、自分に内在する「悲しみ」と強く融合し、摩擦を生み、その振動が涙腺を刺激するのでしょう。


実は、大半の人が「ふくよかな思いやり」という素晴らしい感情をもっている。

被災地に対してだって、潜在的にありつづけている。

だって震災直後のあの灰色に包まれた日常を日本人は皆経験したわけだし、七年と二ヶ月経ったとはいえ、誰の記憶からも消えてなくなることはあり得ないはずから。

忘れたように日常を送るのは

「あんな辛いことは考えたくない」

との本能と

「被災地はきちんと復興して、皆さん大分幸せが戻ってきてるよね」

と信じたい気持ちが、目をふさぐことに繋がっているのだと思う。


ただ同時に、「そうではないのではないか」、当事者じゃないから理解が難しいが「やっぱり大変な日常が続いているのではないか」と皆薄々感じている。


そんな時に、「二万人の方が亡くなったのだ」「まだ震災は終わってはいない」と言葉で聞き


やはりそうだ


と確認し、悲劇を想像させる短調、未来への希望を願う長調を聞くことによって、辛さからの思いやりが沸き上がり、涙として感情的になってしまう。忘れたように日常を送る自分の、強い自戒の念に支配される人もいるだろう。


これからでも何かできることはないか、と思う人もいるだろう。

それが一過性で留まるかもしれないし、行動力に繋がる人もいるはず。


そうした方がよいのではないか、自分がここまで感情的になれるのかと強く思えた人は


聞いてよかった


となるのだろう。


N響豊田公演

posted by take at 11:01| 活動報告

2018年05月27日

涙のわけ


東京ガス吹奏楽団とカラーズを演奏した日のアンコールには、『ア・ソング・フォー・ジャパン』を吹きました。

楽団の方からは「涙をこらえながら演奏しました」とのコメントを、また客席にいた方からも「周りで泣いている人いましたよ」と。


わかります


僕も人がこの曲を演奏しているのを聞いていると、大抵感極まり涙が溢れてくる。

ただこれは「感動している」というのとは違うと思う。

悲しくなって、辛くなっての涙なのだろうと思う。



かつてリサイタルで演奏した際

「気がついたらぼろぼろ涙がこぼれていました。両手で顔をおおって、嗚咽をこらえながら、聴いているのが辛くなってしまって、もうこれ以上はやめて!とまで思いながら、それでも吉川さんが発する何かにぐいぐい惹きつけられて。音楽を聴いていてこんな状態になったのは初めてかもしれません」

との感想をいただいたことがあります。

そしてこのブログに書かれたコメントの最後は、「聴きに行って、本当に良かった」と書かれてありました。


喜びと共に感動したというのとは違う涙だろうに、「体験してよかった」とはどういうことなのだろうか?


しっかり落ち着いて考察したい。

このメンタリティこそ、被災地に対する人々の思いと、これからの私たちがすべきことの鍵が隠れている気がするのです。


明日豊田市で公演なのですが、そこへ向かう旅すがらゆっくり考えてここに書きたいと思います。


N響葛飾公演

posted by take at 18:49| 活動報告