2018年04月15日

言わなくてもよいこと


今家人は、次回のブロカートのチラシ用に、ベートーベンとブラームスを描いています。

どちらもイケメンだが、特にベートーベンは、彼女のリスペクトも筆にのっているように見える。

そう伝えると、「ブラームスの方はまだ描ききれてなくて」と。

ブラームスも憧れの筆になるとどう仕上がるのか。とても楽しみです。



その絵描いているところを見たあるご婦人が

「私先日ウィーンに行ってきたの。本当のベートーベンって、この顔じゃないんですって」

と言ったらしい。


言わんでいいこと、言わんでよろし!!


思わず叫んでしまう。本当、自戒の念も込めて。


人は本当に言わなくてもいいことを言ってしまう。言っちゃいけないことまではたどり着いてなかったりするが、言わなくてもよいことは、言わない方がいい。なぜなら、いろんな意味で一方通行的に放たれることだから。


「人間たるもの、言わなくてもよいことは言わない」

小学生のときに、いの一番に教えてもいいことなんじゃあないでしょうか。

だって…

本当に生きるのが上手い人は、何が言わなくてもよいことなのか、そして言わない方がよい理由まで直感で細やかにわかる、ゆえに言わなければならないこともわかる。

そんな人だから。


室内合奏団、N響定期

posted by take at 22:58| 活動報告

2018年04月14日

構成力


今回定期で取り上げているベルワルドの交響曲。存在も知らなかった作品ですが、マエストロ・ブロムシュテットの作品愛と表現力によって「なかなかに魅力的な音楽」に仕上がっています。


そんな、あまりやらない曲、存在も知らないような曲の話になった。あるアマチュア奏者が、まさにそんな曲に取り組んでいると。

こんなときよく言うのは

「やってみると、やらない理由がよくわかった」

というもの。(ベルワルドは逆の印象)

「いろんな作曲家が顔を出す。あるときはマーラー、あるときはチャイコフスキーみたいな。でもその部分はそれ風で本家ほどではないし、全体としてはとりとめがない」

この印象も、ありがちなものです。


部分的に良いところがあってもとりとめがないとしたら、これはひとえに


構成力


の問題だろう。

かのチャイコフスキーは湯水のように魅力的なフレーズが湧いて出たが、まとめて一作品として印象が成功するように構築するのに苦悩していたとの話。

交響曲四番までは悩みに悩んで、五番でようやく納得にたどり着いたと言われている。


もしそれ風の部分が本家ほどの魅力にたどり着かない作曲家がいたとしたら、それは自らの構成力を育てあげる力が不足している、ないしはそもそも持ち合わせてないからかもしれない。


これは演奏家も同じである。

細かい部分の歌いかた、瞬発的な気持ちの込めかたに取り組みが終始するプレイヤーがいる。

細かいエスプレッシーヴォを繋げても、作品として魅惑的になるとは限らない。全体を歌うことが主体の上での細部のフォルムが、説得力をもってくることは確か。


一曲をどう積み重ねていきながら、起承転結からの感動を生めるか。理解できるだけでなく、そもそも構成という

「システムが組まれた箱」

を意識できるような資質を持たなければならない。


本当は、音大でこそ、ここを大事に考えなければならない部分だ。

若者には見つめにくい「全体」であったとしてもである。


N響定期、川越へ

posted by take at 15:06| 活動報告

2018年04月13日

マジでヤバい


しながわ水族館のイベントポスター、そのコピーにプチウケする。


しながわ水族館、春の特別展
『海の危険ないきもの大集合〜マジでやばい生物(やつら)たち!!』



「夏の海水浴シーズンを前に様々な危険生物が存在することをご紹介し、楽しみながら学べる展示内容となっています!」とのことだが、いまどきの若者なら、どんなにイケてるやつらが見られるのかと思うだろう。実際そこにもかけているのだと思う。


この話題を家人にふると、「〇〇文化会館のコピーが、なんだか凄いみたいよ」という話になった。「時空を超えたオーボエソロ、とか書いてたりするんだって」


実際このホールのページを覗いてみたら、たしかにソリストの称えかたが、映画の宣伝っぽい。

「超人 ピアノモンスター 赤子をひねるような別次元の技術」

「背筋が凍る、超ブリザード級の鍵盤芸術」

「輝けるハイC9連発」

等々


この際、このホールの広告担当がここまで個性を積極的に出すなら、しな水のように、あの言葉を使ってみるのはどうだろう。


『マジでヤバい超絶ヴァイオリン、背筋も凍る冬の協奏曲』


これで

「ソリスト大丈夫か?なぜ呼んだ」

思ったあなたは、一度渋谷へ留学することをオススメします。


N響定期練習、川越へ

posted by take at 17:41| 活動報告

2018年04月12日

雑の良し悪し


丁寧は善、雑は悪という価値観の空気があるが、


丁寧は必ずしも善とも言えない

雑は必ずしも悪とは言えない


そんな場面もあると思います。


私たちの目的達成に必要な「情熱」は、静か動かと言われれば動であろう。

それは丁寧か雑かと言われれば、雑の要素があると思うのです。


本物の丁寧は、あらゆるタイプの雑を超えた先にある。そう感じています。

そういう意味で、雑を否定しきるのは危険。

実は、雑を好み、丁寧を更に愛するような価値観が一番必要だと思います。


N響定期練習、川越へ

posted by take at 16:54| 活動報告

2018年04月11日

音離


『音量』を辞書ると、

1 音の大きさ・強さの度合い。
2 ボリューム。

とでる。では『ボリューム』を調べると

1 分量。量。かさ。
2 量感。
3 音量。声量。
4 書物の巻。册
5 コンピューターの外部記憶装置の領域。

とでる。


ただ、我々が音量を語るとき「もっと大きく」「もっと小さく」なんて言ったりするが、量というなら「もっと多く」「もっと少なく」と言う方が日本語的にはリンクしている気がします。

なぜ量なのだろう?

大きく小さくと言うなら、

『音大』

と言った方が合ってないでしょうか。(音楽大学になってしまうが…)


僕は、音の大きさだけで表現の良し悪しをディスカッションするよりも、音色やニュアンスで表現する方がより深いなんて思っている。

「もう少し大きく吹いてみた方がいいんじゃないかな」という投げ掛けでは、あんまり得がない気すらしている。


様々なニュアンス、音色の変化をつけるのに、それこそ音大の差をつけるというというプロセスが悪いとは思わないが、更なる深さを求めるとき

「聞き手との距離感の変化」

というのは、好きな表現だ。

フォルテだろうがピアノだろうが「ホールの一番後ろまで飛んでくるような演奏」というのは、わかりやすく憧れられるものだが、実は、


フォルテは見事に聞き手まで伸びてくるが、聴衆の耳こそを演奏家に惹き付けるようなピアノで演奏する


そんな名手もいる。

つまり、演奏家と聞き手の距離感が変わることの魅力。

それを言葉にするなら、音の距離で


『音離(おんり)』


とでも言おうか。


実は、立体的に感じられているか含め、音大というもの以上に大切な気がしています。


N響定期練習

posted by take at 21:22| 活動報告