2018年02月08日

お側にお蕎麦を

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麺好き日本人にとって、蕎麦との距離感は近いもんです。

電車の駅、構内や改札外等には、立ち食いがある駅の方が多いでしょう。

町を歩いても、直ぐに遭遇できたりする。住宅街で商店が少ない新馬場の我が近所でも、三軒あったりする。


世田谷美術館に「パリジェンヌ展」を観に行くために、千歳船橋、愛称ちとふなに降り立ちました。


寒いし、温かい蕎麦食べたいなあ


僕の希望に家人が調べてくれます。「よさそうな店あるよ」とのことで、駅近くの『一仁』へ。

ここがクリーンヒットどころか、9回裏ツーアウトツーストライクからの逆転場外満塁ホームラン級の御味(味ではない。御味だ)で、本当に幸せになりました。


温かい蕎麦と小せいろを。どちらのつゆも見事な御味。うま味、バランス共に素晴らしく、いつまででも味わっていたいもの。

何割とはめいうってないですが、八割以上ではあろう蕎麦は、香り豊かで、食感もつるりざらりのバランスがこれまた絶妙。

思わず「大抵の店がこうはいかないし、場合によっては冴えなさ過ぎるのあるけど、そこの店主がこの蕎麦食べたらなんて思うんだろう」と呟いてしまう。

そう感じるほど、日常美味しくいただいている蕎麦たちの中でも、群を抜いていると思ったのでした。


いいなあ、この店、うちの近所にあったらなあ。


贅沢ですかね。絶品寿司屋と絶品イタリアンに、絶品ケーキ屋さんがあるだけ幸せか。

でも蕎麦だしなあ。食べたくなる頻度高いし、近所にあってくれたら、週に何回も通うだろうなああ嗚呼。

幸せな気分で、おフランス女性の歴史をたどる時間へと旅たてた、そんな午後のひとときとなりました。


休日

posted by take at 08:40| 活動報告

2018年02月07日

嬉しい……


今日はですね、我が生徒たちを物凄く自慢させてください。


試験だったのですが、皆、本当に素晴らしい演奏だったのです。

実は中には、18年間の東邦試験人生で初、満点を付けた演奏者もいました。

東邦では、金管と打楽器を全員聞くことになっている。どんなに素晴らしくても95点しか付けたことがなかったが、初めて100点を。

デュティーユだったのですが、もう一流演奏家の霊感に充ちたパフォーマンスのようだったから。


その人だけでなく、トロンボーンの楽聖は皆、本当に上手かったし音楽的に洗練されてきた。

もちろん各々に課題はあり、何も問題がないわけではない。しかし、今年度彼らが、お互いに刺激し合い、高い理想を目指し努力したことは確かだ。


そんな彼らのアンサンブルのコンサートが、今月23日、6時半から川口リリアである。

本当に一人でも多くの人に聞いてもらいたい。トロンボーンと音楽の魅力を高い次元で伝えられるコミュニティになったし、若者たちのポテンシャルは開花しつつある。そんな確信が今の僕にははっきりとあります。


我が生徒の過大評価、みっともない手前味噌では、決してありません。


川越へ
コンサートには、沖縄県芸の楽聖もゲスト参加します。

posted by take at 19:59| 活動報告

2018年02月06日

派生の現実


誰しも、自分の演奏は好意的に受け止めてもらいたいでしょう。それは自分の表現に対する賛辞の所望とも言える。

表現をするということは、快感だったり、ストレスが溜まらないようにする必要不可欠な本能的取り組みだったりする。相手もいて、表現させてもらえる場所というのは、人間社会のコミュニティとしては、サービスフィールドを与えられているとも言える。

自分の表現、普段は言葉だったり態度だったり。これらは実は「自分が伝えたいこと」とも同意語だと思う。

つまり、人間には自分の考えを伝える快感や必要性があり、その相手になってくれる人は有難い存在だとも言える。


実は演奏も同じ。それは表現させてもらえる快感であり、伝えさせてもらえる相手がいるなら、こんなに有難い存在はない。


この伝えたいこと。

実は、自分の中にあるもの以上のことが出てくることはあり得ないのだと思います。

たとえば、自分は5伝えたいのだとして、伝え方が上手かったり、相手の状態にも恵まれていれば、運良く5伝わることもあるでしょう。

伝わりゃ御の字ですね。場合によっては4か3しか伝わらない。いや全く伝わらなかったり、不快として受け止められることもあるかもしれない。

ただ、ここではっきり理解したいのは、5を伝えようとして、6も7も伝わるということはあり得ないということ。

演奏も、自分が思い描いている伝えたい印象以上に素晴らしく伝わるということ無いということ。


で、演奏する人たち、実際には何がどの程度伝わるという希望をもっているのだろうか。

もしかしたら、自分はさほどの内容しか心に描いてないのに、素晴らしく感じて欲しいと、あまりに現実的ではない高望みをしてはいないだろうか。

もしこの高望みをしているとして、そこにあるメンタルの現実としては

「とにかくさらってみた。とにかく吹いてみる。凄くいいと思ってもらえるといいなあ」

なんていう、無理難題な希望なのだと思う。


自分の伝えたいこと以上に素晴らしいことが、不意に派生することはない。無理難題は無理なんだい!!


名曲アルバム収録、川越へ

posted by take at 19:33| 活動報告

2018年02月05日

パワーへの道


オリンピックが近くなってきました。

素晴らしいアスリートたちのトレーニングの様子などもテレビで観れたりし、そのパフォーマンスに大いに期待が高まります。

スピードや距離、鮮やかな姿を実現するためには、やはり常人離れしたパワーを手にいれなければならないのでしょうね。

新しい外国人コーチの下、取り組みを徹底的にデータ化し、柔軟性とパワーを最良の策で身に付けようとしているのが、とても現代風で説得力を感じます。


そのパワーですが、当然身体を痛め付けることがやることの大半になると思いますね。痛め付けずに筋力がアップするなんてまるで考えられない。

私たちで言うパワーなら、とにかく音が荒れてもいいからまずはデカイ音を出そうとし、それを美しくしていくとか。


ただ、どこかのタイミングで理解できた方がいいなと思うのは、音楽的パワーとは


力みとは対極の力がもたらす


ということ。

楽にばかり吹いていたら結果こじんまりとしかせずフォルテが鳴らない、というのは誰もがわかる。

しかし自分のアクティブかつ感情的な取り組みからの「力みの存在」に対し、真逆、つまり


全く力みがない響きの状態


というのを、トレーニングする必要を感じます。

流れようとする息に対し、まるで抵抗勢力がなく、前方向へ無限に進み続ける。それ以上のアプローチをせず慣れていく時間を計上することにより、フォルテというパワーが不意に手に入るという現実。


力みを経験せずフォルテを手にいれることは無理だが、全く力もうとしないことが本物のパワーに繋がるのだということを、生徒たちと共に深く理解したい。


川越へ

posted by take at 09:04| 活動報告

2018年02月04日

結果が音楽的


自分が出したい音がある、表現したいスタイルがあることはとても大事。吹ければいい、出したい音ってのも特に、曲はそれなりに音が並べばいいではあまりに幼稚。

故に自分の感性に正直な表現意欲があることが最も大切だということは、誰しもが理解しやすいはず。


ただ同時に、スタイルや個性とはまた別の価値観として、自分の演奏がとにかく


音楽的に聞こえる


ことの重要性を強く感じはじめました。


例えば女性の化粧。

誰しも自分が好きな「美しい顔への仕方」があると思うのですが、プロのメイクさんに仕立ててもらい、たとえそれが自分の一番の好みとは違っていても、無条件に美しいという一般的評価がもらえるならそれを受け入れ、意識し、目指してみるということ。

自分の個性を封印するという意味ではありません。生徒たちが自分のリプレイと向き合った際、ほぼほぼ不満を持つのは、自分のつもりと違う結果になっているというだけでなく、単純に「音楽的に聞こえない」ということなのだろうと思うからです。

この不満を解消するためには、自分の演奏が、たとえ想定外であっても音楽的に聞こえるということが不可欠になる。

そしてそれは、自分のやり口として想定内になっていかなければならない。


これは教師として、細かく「長く」や「大きく」等具体的に指示するやり方もあるでしょうが、僕はそうではないアプローチで彼らを導きたい。細かいことはやはり自らの感性であってほしい。

なので、練習法などを伝え試してもらったりとトライしているが、そんな取り組みからひとつはっきりしたことがある。


彼らは皆、その本能が、音楽的に聞こえるようになった演奏を無条件で喜びとして受け入れる。

結果に対する、発する言葉が皆同じなのです。


「この方が全然吹きやすい」


ブロカート本番

posted by take at 08:39| 活動報告