2018年01月16日

今日の残念


今来演している若いドイツ人マエストロ、ダーヴィッド・アフカムが、オーケストラに練習番号を告げた。

「フロム・フォーティエィト、なんばーフォーティエィト」

日本のアイドルのファンかと思った。



隣で何度もスライドを掃除するトロンボーン奏者。たまあに動き悪くなり、オイル塗り替えたりしてもなんだか冴えない時あるよね。

「吉川さん、ヤマハのオイルぬったら滑るようになりました(^ー^)」

「楽器が日本製なんじゃないの?」

「いやいや、ははは」

「それ、江戸ワーズだよね。関西で使うとナニワーズ、北海道ではなんていうか知ってる?」

「い、いえ」

「エゾワーズ」

「……」



今回のプログラム、リヒャルトシュトラウスの「ドンファン」「バラの騎士」モーツァルトのピアノ協奏曲とドイツ物が三曲続き、最後だけ何故かラヴェル。

リヒャルトの練習が終わりマエストロが「次はラヴェル」と。

ベテラントランペット奏者が後ろを向き一言。


「バルスっ!!」


我々もみんなで


「バルスっ!!」


日本人は皆、ラピュタにやられている。


N響定期練習
あのー、アイドルグループはNBA48で、我々がやる曲は「ラ・ヴァルス」です。

posted by take at 21:11| 活動報告

2018年01月15日

楽器以外こそ


練習環境について質問をされたことが何回もあります。

もし、とても良い響きのする広い空間で毎日一人きりで練習できるのだとしたらそれは最高に恵まれているとは思うが、実はタイプの違う複数の空間で練習することになるのが結局良いのかもと思いはじめています。

毎日毎日違う場所、1日たりとも同じがないというのは考えものだが、限られたいくつかの空間を経験することで

「ああ、こんな風に響くと気持ちいいなあ、ここだとこんな風に聞こえるのか」

と、音の聞こえ方、その現実を知ることになるし、様々な本番会場への対応能力も高まるだろう。


また、一人きりでさらえるにこしたことはないが、本番の日のバックステージのように、周りの音を研究する機会になったり自分と比べたりも貴重なことだから、これまた様々経験できた方が良いのでしょう。

まるで一人きりになれないというのは、実は一番問題なことは確かだとして。


いろんな空間でさらうことになるとして、共通して意識できると良いこと、その考えが定まってきました。

そこが、六畳の畳の間、全く響かない場所であっても、凄く響くひろーい空間であっても


「自分の楽器以外が鳴り響くことを目的とする」


壁、床、天井、空間を占める空気……

自分の楽器以外の、そんな場所たちこそが鳴り、そして響く。


しばらくこれを推奨してみよう。

もしかしたら、不遇な環境でも、うまくサウンドを作れ、コンディションの維持にも貢献するかもしれない。


周り中が音だらけで自分の楽器にしか意識がいきようがない、そんな環境はやはり一番具合が悪い。


N響定期練習
そういう意味でも、東邦音大は郡を抜いて恵まれた環境だ。

posted by take at 18:25| 活動報告

2018年01月14日

ショウワンピーポー


これを読んでくださっているそれなりに年輩の皆さん

「自分は昭和の人間だ」

と思ってますよね。


大学生が平成生まれになって久しいもんです。だって今年は平成30年なわけですから、大学生どころか30才以下は全員平成生まれ、生粋の平成の人間なわけです。

そんな彼らも、再来年になったら「過去の元号の人間」になることをおののいているでしょうし、

「あ、あの人平成の人だーって言われるようになるんだろーなー」

なんて、まだ先のことみたいに笑い話しにしてるんであろう。平成ズの君たち、直ぐにやってきますから、そんな時代。


実際昭和生まれは、もうずっとそういう感覚で生きてきちょる。

しかしね、たくさんのおっちゃんおばちゃんが気づいてなかったりすることがありんす。

現在31才から59才までの人って、実は平成の時間の方が長いのよね。だってもう平成30年なんだもん。昭和の方がが長いのは61才以上。

僕なんか昭和が22年、平成が30年と8年も長い。しかも最初の10年くらいは記憶もないので、ほとんど平成の記憶で生きてきたことになる。

昭和生まれだから昭和の人間って言い方もあるが、1才や2才で元号が変わったなら、まして一週間しかなかった64年生まれの人は、昭和の人間とは表現しにくい。2才くらいまでしか住んでなかったら、そこ出身と言いにくいのと一緒。

ただたくさんの人が、昭和の方を長く生きてきたとイメージしてるんじゃなかろうか。

ということは、僕は平成の人間なのか?


「実は二十歳までの時間が、感覚的には人生の半分の長さらしいよ。あとの60年くらいが残り半分」


そ、そんなにアッチェレランドしてってんの?! んじゃあ、間違いなく昭和の人間ぢゃわ!!


室内合奏団、レッスン、ブロカート

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2018年01月13日

楽譜の限界


僕は以前は「とにかくまずは楽譜の通りに吹け」一辺倒だった。

今は違う。

なるべく早く楽譜を離れてほしい。というか「楽譜とはなんぞや」ということに関して、正確に理解する必要性を感じています。



楽譜が出現する以前の音楽伝達は、口移しだったのだと思う。音楽を思い描いたら「こんなふうに演奏してみて」と歌って聞かせたり、演奏して聞かせたり。

しかしある時期から、それだけでは気がすまなくなったのだと思います。

録音はじめとして残す技術がまだない。歌っても消えていくことがもったいなくなっていき、なんとか自分の思い描いた音楽を形にして残せないかと。

そうして、おそらくいくつもの音楽の代替になる物質が生まれていったのではないでしょうか。

そんな中誰かが、現在私たちも見ている楽譜記号を生み出し、後進たちが皆「これが今までの中で最も良い記号だ」と使い継いできた。


ただ理解しておきたいのは、実はこの記号も、音楽的感情の喜びを全て正確に伝えるには限界があるだろうということ。

人間である作曲家の感情はもっともっと幅広く振れ幅があるはずで、それを記号で表すにもこの形までが限界、これで妥協するしかなかったのではと思っています。

つまり作曲家が記号にした段階で感情は簡略化されており、あとは演奏家という人間の感性の方に委ねる。ということは、ある意味既にスターターである作曲者の手は離れているようなもの。

ゆえに演奏家の感性こそを盛り込み表現として完成させなければ、意味をなさないのだと思います。どちらかといえばそちらの方が重要だと。


だから、いつまででも楽譜の世界にいて、この記号とだけ対峙していてはいけないのだと思います。

楽譜をなぞり音楽の世界観やムードが見えたら一刻も早く記号からは離れ、自分の感情からの感性こそを使い、表現にやり残しが無いよう鍛練する。


とにかく、音楽は人間の感情の産物でありそれ以外ではないこと、楽譜はその世界に存在する苦肉の策のような記号でしかないことこそを、強く理解すべきだと思います。

もしかしたら、口移しの時代の方が、作曲家の世界は正確に伝わっていたのではとすら感じています。


Mーcrafts、松山公演

posted by take at 16:06| 活動報告

2018年01月12日


著名なドラマ監督の言葉。主役を選ぶ時にこだわることを聞かれてのコメント。

演技力、見た目だけでなく、オーラが必要だと。

そのオーラは目から感じる。その目に必要なものを端的に言葉にした。



「優しさや純粋さは目に現れます」



意図して目を作れるものではない。全て内面がそこに滲み出ているというのが、周りの人に感じられ、評価され、付き合いのテイストをある意味支配しているのかもしれない。


オーラはじめ好意的な魅力が現れれば、当然邪悪なエゴも隠せないのだろう。


目こそが、生きていっているのだ。


松山へ、Nーcrafts練習

posted by take at 09:41| 活動報告