2018年01月21日

音の命


音楽の音というのは、生きていなければならないと思います。

生きているというのは、生命力に溢れているということ。

具体的に言うと、心臓が動き続け、血液がサラサラ流れるように、時間と共に流れ続けてなければならないということ。

では何が流れるかと言えば、これは管楽器の場合は息に尽きる。

音量を上げクレッシェンドしていけばとりあえず方向性は見えやすい。

しかし、音量のように何かが「変わる」のではなく、血液のように「流れる」ということがとても大事。

特に金管は、ともすれば「鳴らす」ことの方を優先してしまい、結果音に力みがコーティングされてしまい、流れるというより「流れていない」「実は止まっている」という結果になることが多い。

この場合、音は死んでしまっているとも言える。「張る」という言葉で、この音の死を容認したがるが、結局音楽的魅力には乏しいものになる。

音が出ている以上必ず息は流れているのですが、血液と同じくドロドロ不等速か、サラサラスムーズかには大きな違いがある。


音は生きていなければならない。とても健康的な流れと共に。


N響観音寺公演
日本人の場合、流れることより、パワーとかよく鳴る等の方に意識が特化しがちかもしれない。自分含め、吹きすぎて結局止まっている傾向を感じます。

posted by take at 16:48| 活動報告

2018年01月20日

あぁ有情 その壱


サラリーマン川柳は、毎年腹筋の振動と共に唸りながらウケている。爆笑あり小笑いありニヤリあり、ほぉ〜ぅや、ん?まで。

ただ何人かで話題にすると、それぞれ好みが違うことに気づく。故に順位とウケ具合は人それぞれであり、10位以下のものでもかなり好きなのあり。

よって(?)今日は、過去の名作たちの中からマイフェイバリッツを選びまするの第一弾。



病院で サミットしてる 爺7

シン・ゴジラ 俺の会社も 踏んでくれ

寝顔好き 確かに言ったが 起きてくれ

「言ったよね」 初めて聞いた でも言えず

「誰の指示?」 数分前の 貴方です

アモーレに 会う日は仕事 二倍速

情熱と 一緒に燃えろ 皮下脂肪

結婚線 あまりの薄さに ペンで書く

キミだけは オレのものだよ マイナンバー

じいちゃんが 建てても孫は ばあちゃんち

福沢を 崩した途端 去る野口

まぁ聞けよ もう聞きました 五回ほど

「一言で 言えば」の話が 一時間

俺よりも 役に立ってる 微生物

みつをから 修造になる 父語録

円高で 外食三昧 塩高だ

花束を 妻へも分けて 定年日


N響神戸公演

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2018年01月19日

手に入れなければならない息


どんな音色で吹きたいかというのは大事なことだけど、それ以上に


「音楽的に聞こえる息で吹く」


ことの方が大事だと思います。


息を画一的にとらえるつもりはありませんが、その楽器として魅力的な音でも、流れのキャラクター次第では音楽的に聞こえない、良い音の羅列にしかならないこともある。


「音も音楽を表現する道具でしかない、楽器と同じである」とまで言っきったとしたら、最も重要なのは、弦楽器で言う右手、我々ならば、やはり息のキャラクターということになるのだろう。

音楽的に説得力が高い息というのは、明らかに存在している。


川越へ

posted by take at 19:09| 活動報告

2018年01月18日

最高難易度心感演奏


楽聖に質問される。


「指揮者によって感動したりしなかったりするのはなぜなんでしょうか?」


指揮者のみならず演奏家もだが、僕は、その人が伝えたいものしか伝わらないと思っています。

というか伝わりゃ御の字ですね。結果伝わらない、うまくいかない場合もあるけど、伝える気のないものが伝わることはまずないだろうと。

つまり聞き手の中に派生し残る結果も、発信する側の希望以上のものにはならないと。


「だから、聞いてて巧いなあと思えば巧さを伝えたがってるんだろうし、いい音だなあと思えば音のよさを感じさせようとしている。だから感動する演奏というのは、感動させたいとまで思っている人からのみ生まれるんじゃないの?」


感動してもらいたいとまで思っている指揮者からしか、そんな演奏は生まれない。たとえ楽譜を真摯に再現しただけだったとしても、それが一番感動に繋がると信じているからであろう。


「でもそうそう感動しないよね。巧いなあとか、いいなあとか、凄いなあかっこいいなあと思っても、感動までする演奏ってなかなかない。感動させたいとまで思っている人が少ないのか、みんなそうだけどそう簡単にはいかないか」


いずれにせよ、最高難易度心感演奏は、目指している人しか実現できない。

実はいくらハードル高くても、希望する権利は全ての演奏家に平等にあるんですけどね。


川越へ、N響定期

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2018年01月17日

我が成功


人は皆、自分がうまくいっていることで勝負しようとする。

ここで言う勝負とは、世の中に撃って出るときのことだったり、コミュニケーションの場での相手へのアプローチだったりするが、教育者が生徒に望むことも同様なものを要求し、さにあらずだと非難する材料にしたりする。


しかし冷静に、そして正確に考察すれは、自分のうまくいっていることというのは、我が人生の中で成功している部分であり、それはそのカテゴリーにおいてそこまで成功していない多数の人々いてこそのものだ。

だから、自分が伝えたり勝負したりする段になって、そうできない生徒を非難する

「自分はやってきてできたことで、当然生徒もできるべきで、できない、やろうとしない人間は駄目な資質である」

と考えるのは、間違いだと思う。

実はどんな学舎であっても、先生のそんな価値観レベルからすれば、できない生徒の方が圧倒的に多いのだ。

だから学舎があり教育があり、自分が先生をやらせてもらっている。当たり前のこと。

教師がやるべきは、できる人、できない人が必ず存在するフィールドで、生徒が健全に先へと進んでいく環境を作り、投げ掛けることだろう。

そのためには、まず自らが健全な状態でなくてはならない。

自分の望むとおりに成果を出さない生徒がいても、イライラしないこともそのひとつだ。

生徒が伸びなければ、自分のフィールド作りに問題があると考える方が、余程健全だろう。


コミュニケーションにおいても、自分が強く訴えたくなる価値観、相手を否定したくなる価値観に関しては、自分が年齢を重ね様々経験し、時には他人様から学び理解できてきたものがほとんど。

年長者として、必ず伝えなけるばならないものならともかく、自分の人生の成功の披露みたいなテイストからの、相手を論破したくなるような気持ちになるなら、ほどほどにした方が良いのだと思う。


N響定期

posted by take at 11:43| 活動報告