2017年12月13日

脱二極化


「現代は、ストレスに強い人と弱い人が二極化していっている」

「1950年くらいから世界は成果主義になってしまった」

最近聞いたこのふたつの情報が、僕の中で繋がって、あれこれ考えている。

生徒たちにポジティブに人生を切り開いていって欲しい、ストレスを感じ過ぎて心悩まないでいて欲しいと願うと、成果主義というものは考えるべきキーワードとして是非を考察すべきだと思うのです。


ここで言われている成果主義というのは、社会的に称えられるべき貢献度の高いことができるということだろう。

問題は、いつの時代も、かつてないハイレベルの成果をあげる人材が出てくると、その後はそこが基準になること。教育や伝承、道具の洗練や初期イメージの当然レベルの向上により、更に成し得る人材が出てくる要求の空気が蔓延する。それに引っ張られるように「出来る人」のフィールドにいる人たちのレベルも上がっていき、逆に「出来ない人」のフィールドにいる人たちが感じる恐怖感からくるストレスはどんどん強くなり、引きこもる。二極化とはそういう流れだと思います。

人間は高いレベルを目指すからこそ発展していくし、それを目指すことに生き甲斐を感じ、認められたり対価を得ることを目標にすることで生きる喜びを得ていくというのはよくわかる。

しかし、全ての人がそんなに高いレベルのことはできないからこその高度への称賛であり評価である。どんどん「成果こそをあげる人材になり、社会に貢献せよ」という見えない圧力が若者はじめ社会を覆い、しかも前人未到のなんて成果が基準になってくると、ある程度のパーセンテージいる不器用な人、頭が早く回転しない人、理解が苦手な人は本当に辛くなり、そのプレッシャーは生きる意味をも脅かすように感じさせてしまうだろう。


それでもこんな世の中になった以上、成果主義はそうそう変わらないと思う。


僕がなんとかしてそうなれば良いと思うのは、優れた人材のフィールドにいる人も認められにくいフィールドにいる人も、全ての人が否定されずに「自己表現」できるような社会になればということ。

「お前の言ってること、やってることは駄目だ」と言われることが、実は一番心を蝕んでいくから。


ここにも「全ての人が同じ動きをしなければならない」と考えることの限界と、打破すべき新たなる価値観、お互いの尊厳こそを尊重する本物の人間愛の装備の必要性を感じます。


N響定期

posted by take at 08:52| 活動報告