2017年10月26日

合奏こそ


合奏の時こそ、演奏家は解き放たれており、妄想モードであり、自発的であるべきではないだろうか。


吹奏楽コンクール全国大会常連名門高校出身者に聞いた。

「合奏中はみんなどう取り組んでたの?自分のイメージを音にのせることはしていた?」

「いいえ、先生がこうやりなさいということをやっていました」

日本のほとんどの学校がそうであろう。合奏中は先生やトレーナーを信じ、言われたようにやる努力をすることが主眼になっていると想像できる。

教師は教師で、うまく演奏できる方法を教えてあげる、それを経験させてあげる、そのことによって君は音楽が好きになり音楽性も育ち、人間的成長につながるだろうと考えているだろう。

しかし多くの人が見失いがちなこと。楽器で音楽を演奏することの本当の意味は「上手く達者にできる」ことではない。

全ての演奏者に必要なのは、作品に内在する素晴らしい感情を自分の感情として音で表現することだ。感じ、探し、イメージし、そして音にすること。

上手くないと表現できないからまずは上手くなれという考え方はわからなくはない。ただ他人に上手さを求めるというのが、本当にその人の音楽的欲求と向き合っているかどうかは疑問だ。

「うまくやれ」と「ちゃんと音楽をやれ」は違う。本当に必要なのは後者だ。

特に中高の吹奏楽部等では、全員が専門的な職業演奏家になるわけでもない。


合奏の魅力は、一人用とはまた違う素晴らしい作品たちに携われること。つまり、素晴らしい感情に出会えること。そして自分の楽器以外の楽器と共存できること。聞いたり重なったり、会話をしたり混ざったり。

他人からの印象を受けとるのは嬉しいばかりだが、同時に自分こそが、目の前のフレーズに対し豊かなイメージをもち、それを音にしようとする。

合奏こそ、人数分の自己表現の塊になればいい。

そんな演奏の本当の喜びなく合奏に参加しても、他人の作り物に参加している気分になり、修行のように感じたり、音楽的達成感が感じられずやめたくなったりすることもあると思う。

最後はコンクールに代表されがちなメンタル、「勝つこと」という自己表現の喜びとはかけ離れた欲求に向くことになってしまうのではないだろうか。


川越へ、N響定期

posted by take at 16:13| 活動報告