2017年09月20日

完成図のクオリティ


ただやみくもにさらっても良い演奏にはならない。これはきっと誰もが理解している。

ここでいうやみくもとは「さらっていくうちにいい演奏になるだろう」というメンタルが存在し、それを持続させているということ。


素晴らしい演奏に必要なのは「素晴らしい完成図」であり、それが常に自分の頭の中に存在し続けることだ。

この完成図は、さらっていくうちに更にクオリティ高くなるのはよろし。ただ、最初からかなりのものが存在しているべきであり、さらっていくうちにわき出てくると考えるのは、残念ながら現実的ではない。

そもそも完成図が無くてもまめにさらえる人はいて、なぜかというと吹く行為がとにかく楽しいから。

まあそれ自体を否定的には言えないが、ただ「いい演奏にはならないけどいい?」と聞かれることにはなる。


極端なエピソードをひとつ。これは、リングよりもエクソシストよりも恐ろしいホラー。

ある人の演奏を20年ぶりに聞いた人の話。

その人は勤勉とも言える取り組みで、ウォームアップの時間にスケール全調と三度のインターバルを全調、20年前と変わらずやっていたそう。そして20年前と変わらず、同じようにとても音程が悪かったというのだ。

僕は聞いた途端、背筋がゾワゾワッとしました。

「やりゃいいっちゅうもんじゃない」という真理の声が聞こえてくる。

本来音程が良くなるために取り組むような内容。それが数十年真面目に取り組んでも、なにも変わらず酷いと。周りも何も言わないんですね。ある意味冷たい。

この話を聞いたあるプレイヤーが「何も考えてないんじゃない」と言った。

そう、考えてないのだと思うが、考えてないことで存在していないのが「良い音程で吹く自分」という完成図だと思うのです。

音程やリズムの話になると「正確な音程、正確なリズムをまず知っていないと実現しようがない」ということがよく言われるが、演奏全てにおいて、この


「完成図という理想、そのクオリティ」


こそが、演奏のクオリティを決め、評価を決める。


完成図のクオリティが高く、感動を呼ぶようなものに憧れているような人なら、経験期間が短くても実現するだろうし、低ければ20年真面目に積み重ねても人からは歓迎されないものしかできないとなるのである。


そういう意味で、真似たい演奏があるというのは悪い話ではない。少なくとも、クオリティが高いであろう完成図がそこには存在するのだから。


N響定期練習、ジパング

posted by take at 21:57| 活動報告