2017年09月30日

A Song for Ootsuchi


今日は、サントリーの小ホールで開催される女性コーラス「コーロ・まざあぐうす」の公演に出演「A Song for Japan」を共演します。

コーロ・まざあぐうすは練馬区にて活動するママさんコーラスです。皆さん大槌に通いながら支援を続けている素晴らしい人たち。

志を同じにする方々と復興に思いを寄せて演奏できることに、強い意味を感じています。

単に生活が戻るという復興ではなく、大槌の方々の充実した日常を夢見て力強く演奏をしたい。聞いている人たちの中で何かが動き新しい波が起こる、そんな演奏をしたいと思います。


25周年記念コンサート コーロ・まざーぐうす&Friends

2017年9月30日(土) 18:00 開演

会場
ブルーローズ(小ホール)

出演
ヴァイオリン:大谷康子
トロンボーン:吉川武典
テノール:伊藤潤
ピアノ:浦壁信二
合唱:コーロ・まざーぐうす、森のPaPas

曲目
竹森かほり:風は知っている(浦壁信二編曲)
鈴木憲夫:女声合唱とピアノのための『民話』から「若返りの水」「鬼とおじいさん」「雪の降る夜」
三善晃:女声合唱のための『三つの抒情』
S. フォルフェルスト:A Song for Japan 2011〜トロンボーン独奏と女声合唱、ピアノのための(浦壁信二編曲)
中山晋平:証城寺の狸囃子
レハール:オペレッタ『メリー・ウィドウ』から「ヴィリアの歌」、「メリー・ウィドウ・ワルツ」、他

料金
自由2,000


25周年記念コンサート コーロ・まざーぐうす&Friends出演

posted by take at 14:56| 活動報告

2017年09月29日

ルールの価値 実力の価値


天下のミュンヘンコンクール、そのトランペット部門で、違う課題曲を吹いたのにあまりに上手かったため予選を通過した人がいたというエピソードを聞いた。

聞いた瞬間「へぇ、面白いなあ」と思ったのですが、直後に「え?そ、そんなのあり?!」と、現実に起こったことの特異さに驚愕してしまった。

様々なルール逸脱からの寛容ともいえる容認あれど、国際コンクールの、しかもあの泣く子も黙る世界一の権威を誇るミュンヘンコンクールにおいての「課題違ってオッケー話」は、


いや、それはないでしょ!!


と。オフィシャル過ぎるし、説明つかなさ過ぎる内容にしか思えない。


で、やっぱり「クレームはどうなったの?てか、そもそもなんで通過できたの?」となる。

当然参加者たちは審査員に詰め寄ったよう。海外のコンクールですから、その姿も遠慮なく激しいものでしょう。

「あまりに素晴らしい演奏だったため、審査員で話し合って先へ進んでもらった」

そうなんだろうけど納得にはほど遠い説明です。


ルールこそ大事、なにせはみ出ない協調が大事だから皆で守ることが大事、それを元にとにかく周りを気にする気になるが遺伝子の根っこガッツリにある日本人なら、余計理解不能な結果。

当然「それ認めたらなんでもありじゃん」とか「みんな自分の得意な曲やるよね」等の感想が、周りの日本人から聞ける。

ただこの思考の向きこそが、やはり日本人らしいのかもしれない。

日本のコンクールだと、前奏をカットしたなんてことだけで落とされたりする。音がやたらいいとか、歌いかたがあまりに魅力的だとか、一芸の秀でた部分を評価したりするヨーロッパとは、まずもって見つめかたそのものが違ったりする。

まさか違う課題曲吹いたことが一芸だったのかと、ワケわかんないことまで浮かんでいったが、日本人からすると、総合的高品質(ルールは当然守る、守れない時点で門前払い)こそとの価値観となる。

とにかく一芸ではない。


違う課題曲でもクレームをねじ伏せて通すことがまかり通る。ヨーロッパでももちろん頻発することではないだろうし、誰かが危惧したように「じゃあみんな自分の得意な…」とはならない。それでも日本人からしたら理解の外という価値観がそこにはある。


ひとつ思い出すエピソードが。僕が20代の頃、件のミュンヘンコンクールを受けた時の話。

二次までで終わったチャレンジ、僕はその後の演奏を聞きながらいろんな刺激を受けていた。

三次予選でアメリカ人の女性が、素晴らしく美しい音でワーゲンザイルのコンチェルトを吹いた。それが聞いたこともないような八分音符単位アダージォのびっくりするくらいゆっくりなテンポだったが、見事にファイナルへ進んだ。

それを客席で聞いていた、当時東京音大で講師をしていた故白石直之さんが、僕の方を振り返り

「吉川君、ああいうの駄目でしょ」

と言ったのです。

駄目というか、やはり「あんな遅いテンポ、いくらなんでも…」と、スタンダードの呪縛を価値の根っこにもった感想になりながら、しかしその言葉が胸にささり現在まで抜けないことになる。

「同じ人間として、世界の価値観は君が思うより全然幅広く、既存概念にとらわれるこそこそ進歩、進化の邪魔をするんだよ」

あのとき、白石さんは僕にそう言いたかったのだと思います。(そんな白石さんは、僕の演奏をとても高く評価してくれていた)


もうひとつ。

クロマティの「日本の野球はレベルが下がった」という発言。

意図としては、あまりに組織立っていて個人の力が出きってないと、日本人の美徳を真っ向から批判するようなこと。長嶋・王の時代から、日本人には協調の美意識はあっただろうが、それでも際立ったスターとその他という図式ははっきりとしており、チームプレーといいながら己が目立つことをまことしやかにやりきる空気はあった。個性的なフォームのピッチャーやバッターも多かった。

チームこそをという日本人の能力の進化を、レベルが下がったと言い切る価値観も実は存在する。


課題曲を当然選ぶことより大切なことがある。協調が必要だから存在するルールより大切なことがある。たとえ皆が平等でなくてもだから何?いや、それを超えてることこそ素晴らしいではないか。

そう叫んでいるジャッジから、私たち日本人も、本当に価値あるものを生むための価値観、これから本当に向かうべき理想の先を、正確に感じたいと思う。


休日
ちなみにそのトランペット奏者は本選には進めなかったそうです。

posted by take at 14:59| 活動報告

2017年09月28日

工夫という時間


羽生善治さんの言葉をもう一度。


三流は人の話を聞かない

二流は人の話を聞く

一流は人の話を聞いて実行する

超一流は人の話を聞いて工夫する


たとえば「1+1=2」と聞いて

意味がわからなかったり集中できなくて聞くことができないのが三流

聞いたけど利用しようとしないのが二流

聞いて実践するのが一流

1+1が2以上になり得をする方法を考えはじめたりするのが超一流ということだろう。

この「工夫ができる資質」というのが不可欠とも言え、極めて重要なことに思えてきました。


そういう人というのは、日常のあらゆることがらを受け取りながらも、疑問をもったり、その奥にあるものを見つめようとする癖がついているのだと思います。

ただ素直に受けとるだけではなく「なんでこうなってるんだろう?」と思ったり、少しでも新鮮な充実が訪れ飽きない時間が流れてほしいため、既存を否定したり発展させたりしながら新しいアイデアを探す、そんな癖。

つまり工夫が自分を変えるアイデアを生むわけで、それを求めたがる資質が必要な気がするのです。


ただこれを持ち合わせるためには、子供の頃から、自分のしたことに対して良い悪いという評価をちゃんとうけ、それをきちんと見つめたという経験が不可欠なようだ。


いずれにせよ言われたことや決められたこと、正しいと言われていることを実践するだけでは、豊かな壁は超えられない。

工夫という時間を生きることこそが、私たちには求められている。


川越へ、N響定期

posted by take at 22:17| 活動報告

2017年09月27日

駅トレ


N響の練習に向かうある朝。

泉岳寺の駅、僕の少し前を40代半ばの楽員(男)が歩いている。改札を出て地上へ上がる階段まできたら、彼はいきなりスピードアップ。一段跳ばしで、しかも駆け足で一気に長い階段を地上まで上がりきり、僕の視界から消えてしまった。


ごいす……


いや、元気な時に一段跳ばすことはあっても、駆け足で一気にとは遅刻しそうな時でない限りしないし、そもそも何年もしていない。しようという発想にならないし、エスカレーターがあれば乗るか乗らないか、だってしんどいんだもの…なんて次元で生きてるわけで。

あいつ、ああしようと決めてるのかな?それとも、よほどアクティビッシモな活力マックスだったのか。遅刻なんて時間ではまるでなかったし。そもそも階段まではのんびり歩いてたし。

ただ僕もこの1ヶ月、いいペースでエアロバイク続いてるし。気持ち的には疲れてないし。

てなわけで、翌日かけ上がってみました。泉岳寺駅階段。周りに人も歩いてなかったので、楽器をもって一気に。

地上に着いた時、足とつけねにはダメージがジワッときます。ほんのちょっとした筋トレした感じ。


コレ、いいかもしれないなあ。泉岳寺に限らず、一日一回階段かけ上がる。人が多いと迷惑行為なので、状況を見極めて。

ちょっとしたトレーニングを毎日一回。


あいつ、そういうことかも。


N響定期

posted by take at 09:32| 活動報告

2017年09月26日

イメージのバランス


合奏やアンサンブルにおけるバランスというのは、音量のことを言う場合がほとんどだ。旋律と伴奏のバランスを…みたいな。

ただ


「イメージのバランスの良さ」


こそ、最も大切なものとして、優れた演奏を目指す世界には必須な気がします。


良い指揮者で演奏をすると、参加している全員が、曲に対して「こういう演奏を目指す」ということに関して一体化することが多い。

つまりイメージのバランスが極めてとれるということ。

一体化と言っても、音程やタイミング、音量のことではないし、旋律が伴奏のように、伴奏が旋律のようにと、ニュアンスが同じになるという意味ではもちろんない。

作品全体が向かう理想の完成像が同じになり、それに貢献しきるため、各々が自分の役割を一体化したイメージに対して奉仕するということ。


指揮者のせいであったり、演奏団体の低い質だったりするが、このイメージのバランスが悪いというのは自分の音符を並べるだけからはじまり、流れを感じない、流れにのれない(のらない)、周りに興味がない、自分がやりたいやり口でしかやらない、自分の快感だけを追い求める等々……


素晴らしい作品は、生み出した作曲家の心情と聴衆の感性のバランスが良いもの。

再現する我々は、個人としても演奏団体としても、イメージのバランスが良くなれるという高い能力をもちたいし、合奏であるなら一体化を実現できるマエストロと演奏をしたい。


その時初めて

「作曲家と演奏家と聴衆の心のバランスが完璧」

という、最高の瞬間が訪れるのだろう。


N響定期練習、大塚へ

posted by take at 19:59| 活動報告