2017年08月16日

風と米と水と


1976年(昭和51年)の大河ドラマは「風と雲と虹と」でしたが、僕はどうやら「風と米と水と」がかなり好きなようです。最近自覚しました。


最初に「そ、そうなのか?」と自問自答したのはお米。

結局あまたあるお酒の中でも日本酒が好き。実は米焼酎も好きで、泡盛はとても好き(米が原料さー)。

煎餅が好き。晩酌とご飯の後に必ず煎餅缶から取りだし食べるくらい好き。

そして、本家ご飯が好き。父親も入院するまでは、でっかい茶碗に二杯は必ず食べていた。


次に「も、もしかして、他人より好きなんじゃ?」と自問自答したのは水。

これはミネラルウォーターがということではなく(ペットボトルは大抵お茶なので)、他人よりよく水分を摂取するという意味。

僕が呑みすぎて二日酔いになるのはそれでしょうね。最初は味わってますが、途中からは喉寂しくてとにかく口に運んでいる。途中から水にすればいいんですよ。

人と食事に入った場合も、最初に出る水は料理がくる前に飲み干したりするし、食べてる間もかなり飲む。周りよりよくおかわりしています。皆がそうではないと最近気づきました。


最後に「そっか、僕はかなり風好きなんだ」と気がつきました。

だから沖縄の風は最高!!外飲みがいいのは、琉球の風をつまみに飲めるから。

家でも、窓を開け風の通り道でまったりするのが大好物。クーラーきいてる涼しい部屋の中で、ずっとうちわであおいでたりします。

きっとこのみっつは子供の頃から好きだったのでしょう。

風と米と水と生きる人生が僕には幸せなのだと、この年で気づけたことは嬉しいこと。

これからも好きなこれらと共に、元気に生きていきたい。


休日

posted by take at 17:44| 活動報告

2017年08月15日

自分の悪意


「物事を悪くとる人の中には実は悪意がある。物事を良くとる人の中には実は善意がある」

という意見を聞いた。

悪くとる人は自分でその悪意に気づいていない、善意から良くとることすら悪くとる、とも言っている。


僕は、自分は基本良くとる方だと思ってはいるが(おめでたい)、しかし悪く考えることももちろんある。

その時に、自分の中に悪意があるということだろう。そして、たしかに自分の悪意には気づいていない。

根っこは大体、妬みやっかみ、もしくは自分がうまくいってないことのフラストレーション転嫁か。


人間的とも言えるこれらの気質が悪意を生むのだとしたら、まるでない人、悪意ゼロの人っているのだろうか?

言い訳をしてるのではありません。人の中には悪意があるから善意もあるのではないかと思うのです。悪意の種あって、初めて善意が生まれるというか。


ただ、自分が悪意をもって捉えても、実は自分にも周りにもなにひとつ良いことがないのだと、はっきりと理解しきりたい。

そして少しでもそれが少なくなるように、良いことも悪いことも未来の自分のために施されているのだと、周りに対して感謝の気持ちを宿し、それを口にし、文字にしたい。

そうやって、悪意をコントロールし、嘘のない自分になりたい。

それが、きっと一番楽だから。


休日

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2017年08月14日

教師の責任


「今の時代は、なんでなんでも子供の意思を尊重して、彼らに決めさせてなんて流れなんでしょう?」

現場で頑張るある教師の嘆きを聞いた。


この流れの根幹にあるのは、その人らしく生きてほしいというのと別に、責任感を育てたいという美しい気持ちと、自分が責任を負いたくないのでという厭らしい気持ちの両方が混ざる価値観があるように感じられる。うがったような見方ですが、自戒の念も込めてです。


このフラストレーションを解決すべく、完全に反対をやるというのは、

「一人一人の子供の意思、希望、個性はおいておいて、全て上意下達でやるべきことを指示し、教え、伝える」

となる。

それこそ今の時代だとこの言葉に恐怖感すら滲んで感じるので、多分うまくいかないだろうというムード満々だが、それでも個別に対応したりするよりうまくいくこともあったりするのだろう。


きちんと上意下達で伝えなければならないこと、要求しなければならないことと、その上で若者が自らの沸き上がりを主張することの両方でしょうね、必要なのは。

何こそをはっきりやれと言い、何を探せと言うのか。それを的確に知りたい。


教師に必要なのは土台造りでしょう。逞しく力強い土台。これこそを間違わずに要求し、あらゆる可能性に自らが応えられる人へと導く。

土台の重要性を教え、要求し、そこには教師として責任をもち、後は見つめ続ける……


高松一高レッスン

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2017年08月13日

管楽器奏者とフィジカル


【フィジカル】

physical

1(精神的と対比して)物質(的)の,物質界の (⇔spiritual); 自然(界)の

2身体の,肉体の (⇔mental,→psychic)

3【限定用法の形容詞】 物理学(上)の,自然の法則による

4(スポーツで)〈人・行為が〉荒っぽい


スポーツでいうフィジカルの強化、フィジカルが強いというのは、シンプルに2の「身体・肉体」ということ。この場合、対義語としては「メンタル」となっていますね。

我々の世界とフィジカルの強化なんてのをシンクロさせると、あの時代の吹奏楽部の

「腹筋200回じゃあ!」

くらいしか思い浮かばす、特に最近の桜の園部では、まるで見当たらないのだと思う。

ひとつ言うなら「口回りの筋力の強化」というのはあるが、それは普段の練習がそのまま「強化トレーニング」になっているし、そこを強化してからどうこうというより、音を鍛えたり音楽を鍛えたり(?)というのが同時進行。意識としても、練習をしていることが身体や肉体を強化しているとはイメージしにくい。


ただ「フィジカルが強い=逞しい身体」と考えると、逞しい音には逞しい息が必要で、その流れが作れる身体は必要。

「逞しい息が流れる身体を作る」ということを意識した場合は、フィジカルの強化、強いフィジカルというのは必要な考えだと思う。

つまり『管楽器の演奏には屈強なフィジカルが必要だ』と。


高松へ

posted by take at 19:17| 活動報告

2017年08月12日

実は……


「聞きに行って本当に良かった……」

と思われる演奏をする。


これができる人というのは、この最難関課題に対して、真っ向から向き合う人だけだろう。


とにかく簡単ではない。


なにせかなりの感動が必須だし、しかもそれが聞き手の生きざまやその時の精神状態とリンクしなければならない。

聞き手一人一人の状況というのは、演奏家には全くどうすることもできないので、それならもう誠心誠意音楽に奉仕して、

「これぐらいの演奏なら、自分は感動する」

というところまでもっていくしかない。それで相手の琴線の震えを信じて、祈って、賭けるしかない。

とにかく余裕をもち、聞き手の耳の集中度×耳の数くらい自分こそが没頭し、全身全霊をもって取り組むしかないのだ。


それはそれで相当大変だ。並の労力ではない。そのつもりで準備し、そのつもりで気持ちを作らなくてはならない。

だがそれしかない。「聞きに行って本当に良かった」と思わせたいなら。


ただ……

自分が100%そうできているか、はたまたできていないかは置いておいて

「聞きに行って本当に良かった」とまでは思われない演奏をする、またその程度のことを目的とする

そんなことをすることに、何か価値とか、何か意味があるのだろうか……


よく考えてみたら、見つからず、そして無駄だと理解した瞬間、初めて凍る背筋がある。


休日

posted by take at 22:24| 活動報告