2017年07月31日

かりゆしウェア


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かりゆしとは沖縄の方言で「めでたい」という意味。

そんなかりゆしは、沖縄へ通う僕にとって特別な日常ウェアになった。沖縄滞在時だけでなく、東京でも着用している。

これは、うちなんちゅの生徒に

「東京の人はみんな夏もスーツなんですよね。かりゆし着ればいいのに。先生広めてください」

と言われ約束したからという大義名分の元、その個性が大変に気に入ったからなのです。

そんなかりゆしについて、今日はいろいろアピールしたいと思います。



『かりゆしウェアは、日本と関わりの深いアロハシャツをモチーフに作られています。基本的な形状やデザインはアロハシャツと似ていますが「県産品で沖縄らしさを表現したもの」と定義づけられ、区別しています。

かりゆしウェアの起源は、昭和45年に当時の社団法人沖縄県観光連盟会長の故・宮里定三氏の発案により、「沖縄の暑い夏を快適に過ごすとともに、観光沖縄をPRするため」を目的に「沖縄シャツ」の名称で発売されたのが始まりでした。平成12年に名称が「かりゆしウェア」に統一され、同年「九州・沖縄サミット」にて、各国首脳がかりゆしウェアを着用したことがきっかけで急速に広まっていきました。

広く普及し始めるとともに、デザインはもちろん、開襟シャツからボタンダウンや長袖、喪服用などのシャツもつくられるようなり、スタイルも多様化してきました。沖縄県内では、かりゆしウェアは夏の正装としてすっかり定着しており、暑い夏を快適に過ごすビジネスウェアとして多くの方々が着用しています。またクールビズの取り組みの一環として政府に推進されています。

こうした背景により、かりゆしウェアは「仕事着」や「男性が着るもの」という印象をもたれがちですが、2011年の東京ガールズコレクションでは「かりゆしスタイルコレクション」が開催され、女性向けにワンピースやチュニックなどの商品やファッションとして着用できるような新しいデザインも誕生してきています。(かりゆしウェア専門店MAJUNホームページより)』



僕はお洒落ではないし洋服選びに熱心な方ではないが、かりゆしを選ぶのは楽しくてしょうがない。

最初「サンエー」というデパートへ連れてってもらった時、その華やかな売り場に驚き、自分でびっくりするくらい夢中になり選んでいた。

なんたって、派手でお洒落なのに「正装」「仕事着」だというギャップがたまらない。華やかでデザイン性の強いフォーマル。若者のお洒落着のようなシャツを、ワイシャツとして選ぶようなもの。

最初買って大学に着ていく時「派手過ぎるかな」と思いながら行くと、専任の先生方はもっと賑やか艶やかで、琉球の情緒に感服したものです。

驚いたのは、仕事から帰ったらかりゆしは脱ぎ、普段着に着替えると。それは無地のポロシャツだったりするそうで、仕事の時の方が派手なのです。

僕もN響や大学に行く時は着てますが、休みの日はきちんと(?)普通の格好してます。

生徒に聞いたところ、新入社員は初期の頃はスーツだったりとか。ある程度時間が経ったらかりゆし解禁になるところもあるそう。正装とはいえ、キャリアを選ぶのか。

喪服としてのシャツもある。真っ黒のシャツに薄く柄が入っている。なんともお洒落である。


沖縄はとにかく暑い。暑い時期も長い。かりゆしも4月から11月までが着ることを奨励されているが、今年なんか1月の前半でも半袖だった。

若者のかりゆし離れを危惧しての流れもあり、最近は特に様々なデザインがとにかく華やかで、楽しいかりゆしワールドが更に沖縄を明るくしている。

仕事着としてだが、これからはお洒落着としても許容されていくのかもしれない。


ホテルで貸し出してたりするし、那覇空港でもかりゆしを着た観光客がたくさんいる。仕事ではなくても、琉球の気分を満喫するには最高のウェア。

彼らの満面の笑顔からは、素晴らしいこの島の愉悦がシャツの力も相まって、溢れまくっている。


これぞ、でーじ(とても)かりゆしである。


休日

posted by take at 16:55| 活動報告

2017年07月30日

三つの目的


楽器を吹く、演奏する目的は「自己表現だ」と言うと、様になるし真理に感じる。

でもこれは三つのうちのひとつだと思う。


しかも、人によっては「自己」とは表現しにくかったりするかもしれない。「いや、そんなに自分こそを表現している感じじゃないです」なんて人もいるだろう。


三人の画家に「あなたにとって、絵を描くとはどういうことですか」という質問を投げたそうです。

1人は「自己表現です」と、最もわかりやすく。

もう1人は「呪いです」。 の、呪い…。描く運命になり、良きも悪きも追い込まれ、運命にさいなまれているのか。

残りの1人は写実の巨匠で「特にないんです」と。小さい頃から図鑑などの写真をそっくりに描くのが好きだった、自分が描きたいものが自分の中からわくというより、ということでないのだそう。

ただ全ての人に「自己」という言葉がそれこそ様になるかどうかは置いておいて、「表現している」ことは確かです。

つまり「表現する」という欲を満たすために、その表現に対する賛同をアイデンティティーの力にしたいために、楽器を吹いているのでしょう。


もうひとつは、トレーニングだと思います。

これはM的本能で、自分を痛めつけ鍛えて成果を上げることを喜びとするというもの。単純に努力が快感で、更に変化や成長を楽しみ、そしてそんな自分の上昇する矢印をアイデンティティー確立のエネルギーとする。


三つ目は、シンプルに「遊び」として。

単純に楽器を吹く行為は楽しく、人と一緒に吹いたら楽しく、名曲なんか演奏したら楽しく。つまり遊んでいる。


全ての仕事や趣味にも通ずるのでしょうが、この三つのためではないでしょうか。

これらがいい感じでバランス良く、活力と共にアクティブになされていれば、楽器を吹くということが充実しているとなる。

やらなければならないことではない。しかもどれかだけピックアップし「自己表現しなければならない」「トレーニングしなければならない」「遊ばなければならない」と考えることでもない。

大いに表現し、大いにトレーニングし、大いに遊び。できる限りバランスよくやりきれるといいですね。


僕はプロの演奏家なので「何かっこつけてんだ」と言われるかもしれませんが、楽器はお金のために吹いているのではありません、どう考えてもそうなのです。

仕事なのに遊んでもいるわけで、これまたけしからんと怒られそうですが、しかしこれが僕の選んだ人生の時間のテイストです。

呪われてるのだとしたら、克服できた気がしないくらいエンドレスな奥行きで、やめられないくらい気持ちよくて、どうしてもやってみたい過去の名曲たち、その作曲者の怨念にやられているのでしょう。


N響ほっとコンサート

posted by take at 13:55| 活動報告

2017年07月29日

あなたにとって楽器を吹くこととは何ですか


楽器を吹くこととは何か。それは


自己表現であり

トレーニングであり

遊びである。


N響川崎公演

posted by take at 10:53| 活動報告

2017年07月28日

ドリンクエボリューション


ウガンダ・トラさんなんですよね

「カレーは飲み物」

って言った人。その後まいう〜石ちゃんが連発して広まりましたが、ビッグバン(?)はウガンダショック。「カレーライスは6杯を3分で食べる」「一杯を5秒で食べたことがある」と自慢していたそう。


時代は流れこの迷言は店の名前になり、CoCo壱もビックリな知名度で、サラリーマンの会話のネタとして広く知れ渡ることとなりました。

ウガンダさんは、「それくらいカレーは好きだ、うまいと思わないかい?」「俺はただの巨漢じゃないぜ、みんなもびっくりな早食い、大食いマスターなのさ」と言いたかったのだと思います。

「飲んでしまうくらい美味しい」が、巨漢の免罪符テイ…言い訳テイストとして人々の心に笑いを届けているが、店の名前にして出店された時は、さすがに時代の価値観への懐、勢いとユーモア、そして男のロマンを感じ、少なからず驚きと嬉しさに包まれたものだった。


更に時は流れ、池袋には「カレーは飲み物」に次ぐ新しい飲料店が。その名も


『とんかつは飲み物』


な、なに〜〜っ!!

カレー店が同じ系列として出したらしい。神をも恐れぬやってしも〜たなのか、時代の先駆的偉業となるのか。

カレーはまだルゥがトロトロなので飲むのは可能だが、とんかつは飲めんやろ。

ある人が「そもそもとんかつは飲み物なのでしょうか?」と具問を店に投げたところ、

「とんかつに限らずおいしい食べ物は既に飲み物だと思います。これはもう概念です」

との返答が。

概念だったんですね。ウガンダさんのアイデンティティーアピールは、時代を超えて、崇高な概念として多くの人の居酒屋トークのネタになっていってる。

ちなみに、桑田晃がよく「吉川さんはうどんを飲んでいる、噛んでいない」と言うが(……噛んでますよ)、概念としては僕にとってうどんは飲み物なのだろう。

とすると、讃岐のセルフのうどん屋は、ドリンクスタンドということになる。


うどんやラーメンはまだ飲み物イメージになりうるが、いきなりとんかつまで行ったので、概念の進化は人類の意識を遥かに超えたスピードで進んでいる。

次は「焼肉は飲み物」「ジンギスカンは飲み物」だろうか。はたまた「寿司は飲み物」「餃子は飲み物」か。


今の僕は「サムギョプサルは飲み物」そして「チャミスルは食べ物」なのである………ん?!


川越へ

posted by take at 15:02| 活動報告

2017年07月27日

演奏が存在する場所 その2


「音程はトロンボーンの中にあるんじゃない!自分の中にあるんだ!!」

と、青島刑事は叫んでましたが、リズムがトロンボーンの中にあるイメージはないにせよ、音色や音程はあると考えやすいですよね。

実際「この楽器は音がいい」「この楽器は音程が悪い」なんてことはメジャーな日常会話。

もちろん、この発言が間違っているとは欠片も思いません。ただ、そこを肥大して価値観の中心に据えると、自分とトロンボーンがどんどん分離していくと考えはじめています。

これら楽器に対するアプローチだけでなく、そもそもメジャーな基礎トレーニング法やエチュード、レッスンで細かく言われること、スライディングやアンブシュアのピックアップも含め、克服法なるものも、語れば語るほど、

「トロンボーンと自分は結局別のものである」

ということを膨らませているように感じます。


そうは言っても、ピアノもバイオリンもそういうことしか、一般的に設定することはできない。だからおかしいとかそういうことではなく。


ピアノやバイオリンは世界中で凄い数の人々が取り組んでいるのでしょう。エチュードをさらいレッスンを受け、曲をさらい発表し。

ただ、中には数は少ないが神童と呼ばれる人たちがいる。まだ小さいのに信じられないような演奏、表現をする。若くても、上手くて上手くて、世界トップオーケストラのコンチェルトのソリストに呼ばれる人もいる。


その他大多数の人とは、一体何が違うのか。才能の正体とは一体何か。


それが、楽器との関係性ではないかと思うのです。

大多数の人は、楽器とがっつり向き合い、克服しようと格闘する。

神童や天才にとっては、まず自分の中に演奏の全てが感情と共に消化されて存在しており、僕らが楽器と呼んでいるものはただのメガホン。相対して格闘するものではなく、表現しやすいように扱うもの。

自分の中で表現は定まっているので、それが出てくるように扱えば、自動的に私たちが理想の奏法なんて言ってるものになってしまう。

自分が100で道具は0。

音楽が存在しているのは、100%自分の中で、メガホンの方は0。拡声器なだけ。

あの、でかくて、指先しか密着しないピアノですらそうじゃないだろうか。


N響ほっとコンサート練習、川越へ

posted by take at 20:02| 活動報告