2017年06月15日

超没入


集中っていうと、「集中してる=○」「集中していない=×」のように二択にイメージしがちですが、僕は違って捉えています。

集中していないというのはこの際どうでも良いのですが、集中してるというのは単純に○ということではなく、精度だと思うのです。集中にもレベルがあるみたいな。


1集中、5集中、10集中、100集中……


音色を、タイミングをチョイスする、とにかく表現することに集中したいわけですが、やはり1集中ではなく100集中したいものです。

ただ「集中」って言うと、集中しなければならないといきがちで、受験勉強のように少し硬く感じてしまう。


ので「没入」という言葉はどうでしょう。するとしなければよりは「没入したい」となりやすく、より音楽表現の現場にそぐってくる感じ。


1ボツ、5ボツ、10ボツ、100ボツ……


なんか、出版社に原稿持ち込んでる若手作家たちが泣きそうな言葉ですが。


音を放つ瞬間は、周りが何も見えなくなるくらい、音楽なのに時の流れを忘れてしまうくらい、物凄く没入できるスキルが欲しい。


そんな精度を、皆でもっともっと上げたい。


大塚へ

posted by take at 21:21| 活動報告

2017年06月14日

王様の演奏


音楽を聞く、その演奏を生み出す人の年齢は、実は聞き手にとっての喜びには全く作用しない。

感動的な演奏をした人が80歳でも60歳でも、40歳でも20歳でも、10歳であったとしても「だから良い、良くない」という聞き方はしない。

人間的成熟度と演奏の成熟をイメージで照らし合わせ、驚いたり納得したりすることはあってもそれは一瞬であり、その音楽的魅力の評価には結局繋がらない。


つまり常に聞き手は、堂々と自信に満ちたような音、同情を求めたり幼稚さを感じさせない演奏を聞きたがっている、演奏と年齢、ましてや社会的立場というのは全く関係しない。


年齢の高い人が熟練した表現になり、若者がフレッシュな印象になるというのはわかりやすく様にもなるのだろうが、実は別のテンションも存在したりする。

それは若い人が、はっきりとしたスタンスで自分の表現ができない、しようとしない、しなければならないとわかってないパターン。もちろん全ての若者がそうではない前提。


これは社会の中での立ち位置がもたらす、潜在的な弱者意識がもたらすものだと思います。

低年齢というだけで、自分の周りには年長者が圧倒的に多い。大学生であっても親の扶養のもとにあり、学舎でも教授はじめとした年長者との付き合いになる。

本当は若者らしいほとばしる情熱でもって、止められない青年の主張のようなエネルギーで演奏すれば良いのだが、お伺いをたてる立場だったり、敬語を使ったり気を遣ったりする機会が多いと、どうしても

「強く出られないリミッター」

みたいなものが、潜在的にかかるようにうつったりする。少し積極的に攻めても、直ぐにほころびをたしなめられたりしたら余計そうだろう。


王様の意識ではなく平民の、しかも立場の弱い民衆の意識が自然と宿ることによって、本当にもたなければならない演奏の魅力の原動エネルギーがもてなくなってしまう。


しかし聞き手にとってはこの演奏者の立場、その控え目なメンタリティはまるで関係のない話で、不必要なもの。


実は、必要なのは王様の意識だと思う。


「下々の者たちよ、我が声を聞き、一切逆らわずしたがうのだ」


そんな王様の演奏こそを、若かろうがなんだろうがやらなければならない。

それを受けとる下々の民衆が、心からの拍手と共に年貢を納めてくれるかどうかは訓示の内容によるのだろうが、いずれにせよ上意下達の演奏こそが求められていることは確かなのです。


沖縄県芸レッスン

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2017年06月13日

濃密なオーケストラスタディ


この二年以上、運良くほとんど雨に当たらない那覇タイムだったのですが、今回は梅雨の豪雨の洗礼を受けてます。

でも、レッスン室は快適なので順調に演奏の進化が進みます。

今回はチューバ池田先生と日程を合わせたので、二人がかりでオケスタレッスン。二日に分けて一時間半づつのつもりが、今日しか楽聖の時間が合わないとのことで、三時間みっちり。

課題に出していた悲愴のフィナーレのコラールは、チューバの楽聖が入れ替わりながら、何度も何度もやる。楽聖だけ、僕が替わりに吹く、池田先生が替わりに吹く、二人共入って吹くなど様々なパターンで。

最後の方は、楽聖だけでNHKホールでの響きっぽくなってきたが、やはりダイナミクスの変化に対する色合い、質感の多様性に関してはまだまだ地味な印象。

普段一緒に吹いている池田先生と一緒だと、余計リアルにわかりやすい。


続けてブルックナーの四番、ロマンティックの1楽章4楽章をそれぞれチューバが入れ替わり。

同じフォルティシモでも、場面によって音色音質を変えること。トロンボーンだけのピアノのハーモニーの響かせ方他、これまたみっちり。


最後に授業でやっているブラームスの大学祝典序曲を。こちらは楽聖も慣れてはいるようだが、だからこそ課題もはっきりとする。


楽聖にとっては、ほとんど経験値が低く、しかもこれからもやる機会があるかどうかはわからない。

しかし現場でやる我々の、ある意味マニアックな細かい指示は、彼らの音楽観そのものを幅広くしてくれるだろうと信じての取り組み。


実は、僕と池田先生自身が大いに楽しんだ結果にもなった。


夜は金管の専任教授の先生方、いろんな専攻の楽聖、地元プレイヤーも一緒に、大盛り上がり宴会。

なんだか、関東では忘れつつある昭和の飲み会の雰囲気に包まれる。さすが沖縄、時代と共にスタイルが変遷していかない、本能が喜ぶムードが当たり前のようにある。なんだか正しいなあなんて思ってしまいました。


沖縄県芸レッスン

posted by take at 16:47| 活動報告

2017年06月12日

ネんコうニャ列

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初台の中華屋の入り口にいた招きネコ。何気なく一緒に記念撮影をしたら、前世で生き別れた兄弟だと判明した。

彼が人間だったのではなく、こちらがネコだったのか。どうやら双子だったようで、自分でもクリソツだと思う。


今まで動物に似ていると言われたことは一度もない。居住が、古馬場馬込新馬場なので馬に縁があるのかもとか、住む先々でウシガエルに遭遇するのでカエルと繋がりがあるのかとか思ったことはあったが……


そういや近所のネコたち、こちらを凝視して動かない時がある。ネコパシーで話しかけられていたのに、こちらが人間になりきったつもりでいたため聞こえなくニャていたのか。

それとも加齢で、ニャスキートーンが聞こえないのか(ニャみだ)。

もしかしたら後参者としてこの新猫場に来たのに、ニャルシストな僕が、人間のつもりで偉そーにニャンコ先輩たちを見ていて、気分を害されていたのかもしれニャい。ニャンたることだ。

とにかくこれからは先輩たちの声をよく聞くよう努力しよう。ニャかま外れは困るので。


初台では現代曲の本番だったのだが、自分はネコだったから、ニャニャ番ポジションがニャが手だったのか〜。

トロンボーン上手くニャるためにも、来世こそは是非ニャン間にニャりたいものです。


休日

posted by take at 17:49| 活動報告

2017年06月11日

さみしくない音程


音程が不安定な生徒に対してのアプローチ。

スケールにきちんと取り組むようにとか、チューナーを使って確認するようにとか、もっと自覚してとか。かつては、ピアノでコードを弾きながら生徒がスケールを吹くレッスンをしたりもしていた。

全て生徒に「気づいてチョイスするように」という気持ちがこもっているが、今日のレッスン中にふと


「彼自身が、自分の音程に対して色合いを要求しなければ、いくらスケールやチューナーたちと取り組んでも変わらないのではないか。それなら曲の表現に対するアプローチの方が、音程の改善に繋がるのでは?」


と思った。


たとえば料理教室。美味しいものを作りたい、それを食べさせたり食べたりしたいという気持ちがあまり無い状態、料理が出来ないので出来るようになりたいという気持ちだけなら、ノウハウをゆっくり知っていっても、本当に美味しいものを作れるようにはならないだろう。ましてや人に「行ってきなさい」と言われてなら余計。


音程教室なるものがあり、なんだか音程悪いみたいなので良くなりたい、という気持ちだけで行ってもだめな気がする。先生が「君は音程が良くないから、教室に行って習ってきなさい」と言ったとして、そこにチューナーはじめ素晴らしいノウハウが数あったり、音程改善強化合宿みたいなのがあったとしても、その音程を使って感情の色合い豊かな表現をしたい欲求自体が本人になければ、本物の音程にはならない気がする。


音程の存在理由とは、感情の色合いを表現すること。


料理を、まずくなく食べれれば良いのだという取り組みと同じように音程と向き合ったなら、それはあまりにさみしく感じてしまう。

人の心は、さみしくない音程こそを聞きたいのだ。


レッスン

posted by take at 18:57| 活動報告