2017年03月21日

人生後半


先日、ある転職話を聞いた。

時間をかけて、自分の職場に対する疑問が膨らんでいったようだ。

「年輩の上司に相談した時、自分は定年近いからもう何事もないよう過ぎればいいだけって発言聞いて、気持ちが決まりました」

問題意識強く、理想があり意欲に溢れているほど、若者はこの手の発言には心から失望するだろう。いろんな場面で聞くこともあるタイプの発言だし、本人が冗談のつもりで言ったとしても、実は部下たちに内在している責任感を障ってしまうのだと思います。

KYにならないように「ですよね。長い間頑張ってこられましたもんね」なんて反応してても、大きく軽蔑されていることもあるだろう。

つまり、してはいけない発言のひとつだろう。


若者にエールを贈りつつも

「気持ちはわかるよ。ただその人自身が気の毒だね。本当は60才の定年時、今の人たちはまだまだ働ける身体と頭なわけで、最後まで意欲わくように仕事をし、自分も周りも惜しむように終われるのが理想。やりがいもなくただ時間が過ぎればいいって、職場のせいであれ本人のせいであれ、そんな気分で終わるその人が可愛そうだよ」

と言っていた。

「そう考えればそうですね」


人生の後半は、若い時にあった不安は減り、丁寧に身の丈に合った生き方をすれば、それなりに安定した時間は流れる。そう定めてしまえば、小市民的な(懐かしい)感覚で安気に暮らしていける。

ただ何事も終わり方は重要であり、定年後の生き方含め、早期の失速は後々響く気がする。

最後まで幸せに生ききるためには、自分の実力の頂点も現実的だが、意欲の頂点の持っていき方、周りに対する表現に求められる品性の鍛練は、若い頃より困難を極める。

いずれにせよ、感謝しながら開拓する気持ちは、持ち続けるべきだろう。それが老害でなければ、若者たちに受け継げるという価値も出てくる。

そんな人生後半を生きる価値が生まれてくるのでしょう。


クリニック

posted by take at 09:20| 活動報告

2017年03月20日

認肉

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ジパングのKは「肉は太らない」と叫んでいた。

どうせ肉を食べるなら、太るだのなんだの言わずに「明日の活力のために」食べちぎりたい。

ということで、焼肉ナイトを楽しむことに。

店の名前は『馬場ミート』(ばんばみーと)。ネイミングはなんともセンス良く感じますが、馬肉ではありません。

新馬場の駅近にできた新しい焼肉屋。いきつけの飲み屋『がむしゃら』で、「今度近所で仲間たちが焼肉屋始めます」と聞いていた。

今朝がむしゃらに電話。番号を聞き予約もバッチリ入店すると、いつものがむしゃらの店員さんたちが焼肉屋になってさばいているではないか。


最近流行りの熟成肉は、うまみバッチリ。三人で次から次へと頼み、マッコリだあのハイボだあのグピグピやりながら、

ジュウジュウ、つけつけ、パクパク、ジュウジュウ、まきまき、ぱくぱく、ジュウジュウ、のせのせ……


えっと、サンチュやエゴマの葉に巻いて、スライスニンニクをのせ……

え?明日から高校生たちのレッスンなのに、ニンニクいっていいのかって?

いーんです!!!気合いで臭わせません。

どうせ食べるなら、臭うだなんだ言わずに「明日の活力のために」食べちぎりたい。

そこにニンニク肉肉あるのだから。


休日

posted by take at 21:07| 活動報告

2017年03月19日

日常


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やりたいこと
やりたくないこと
やらなければならないこと
やらなくてもよいこと


やらなければならないことでありやりたいことでもあること

やらなければならないことだがやりたいことではないこと

やりたいことだがやらなくてもよいこと

やりたくないしやらなくてもよいこと


室内合奏団、ブロカート

posted by take at 17:04| 活動報告

2017年03月18日

楽器の存在理由 その2


「よく喋る」と一部(?)で言われている僕ですが、口でも喋りきれないことがあるのか?と言われれば、そうです。

素晴らしい音楽が、何がどう素晴らしいのかというのは、かなり言葉にならない。料理の味なんかも。


でも、演奏で表現したいのは音楽や楽器の音の素晴らしさだけではない。

聞こえてくる音からのみ感じられる感情は、はっきりと存在する。もちろん快感も。作品によっては、口では語りきれない人生そのものや、哲学まで存在したりする。

そこに価値を感じ、

「表現することこそを自分の生きる意味にしています」

という姿勢を、これまた表現しようとする。

押し付けがましいかもしれないが、なんといっても音楽なので、聞きたがってくれる人もいる。本当に有難い。


ただ吹くことが楽しいだけの人だと、自分の演奏を客観視することをやりたがらない。というか、やる必要がないので、自分の意見と食い違っていても平気……

……なんだろうか?本当に平気かどうかはわからない。「いや、平気じゃない」と言いそう。


もちろん全ての人と楽器は同じ関係性にはならないだろうし、それでいいのでしょう。


音大にて、本当に必要なことは、「吹けるようになる」「技術を身に付ける」ということよりも(このムードは無くならないし無くさないが)


「君が本当に周りに表現したいことを、楽器でこそやれ」


なのだろう。

楽器の存在理由がそうでなかったとしたら、技術は空回りし、音は空虚に響いてしまうだろうから。


レッスン

posted by take at 14:01| 活動報告

2017年03月17日

楽器の存在理由


音楽も楽器も大好きだが、結果吹いている演奏は自分のやりたいことになってない人がいる。というか、そういう人多い気がします。

本当にやりたいことに到達できてないといえば、僕もそうだしほとんどの人がそう言うだろう。

ただそうではなく、当人が客観的に聞いたら、まるで自分の吹きたいことと違うことをやっているという人。

「自分、なんでこんなこと吹いてるんだろう?」

みたいな。


この人は、楽器を吹くことは好きだが、自分を表現する媒体として存在しておらず、ただ楽しんでいるだけなのだと思います。


お前はどうだと聞かれたら、

「楽器を吹く行為自体はもちろん大好きです。音が出ると嬉しいし、良い音出るともっと嬉しいし、振動も快感だし。しかしそれ以上に僕にとっては、自分の気持ちや存在を音にして表現するものとして存在しています。トロンボーンの演奏で、自分の本当の意見を一滴残らず表現しきりたい」

となる。

一滴残らず表現しきるために技術は必要。達者に吹けるようになるためにも技術を鍛練してはいるが、それ“だけ”では限界にぶちあたる。

こんな風に自分を表現したいのに、これができないからできない!からできるようになる、みたいな気持ちが一番良い向き方に感じる。


楽器を吹くことは楽しい。しかし

「口や表情、身ぶり手振りをもってしてもやりきれないような自分の意見を、楽器でこそ表現したい、やりきりたい」

という欲求が自分にあるかないか。

周りを見ると、ある人こそが楽器を手に職業として生き抜いている、そんな気がします。


レッスン

posted by take at 13:24| 活動報告