2017年01月19日

実は一番必要なこと


数ヶ月前「意図」というタイトルでこの場に書いたことがある。

『レッスンの時間に必要なのは生徒の意図だと思います。先生の意図ではない。以上』

とだけ書いたら、それなりに反響があった。いつになく端的に書いたので、解釈の幅含め興味をもって受け止めてもらえたのでしょう。


じゃあ教師の意図は必要ないのか?どんなんでもいいのか?と言われれば、そうは答えられない。

「自分は目的もなにも、レッスン代のためだけにやっている」なんてのはどうかと思うし、いろんな教師がいるだろうが、やはりその意図は生徒の向上に向いているべきだ。


ただ教師のそれしか存在してないとしたら、実は限界がある。そもそも先生と生徒、どちらの意図こそ不可欠でその内容が重要かといえば、生徒のものであるということは間違いない。


問題は受動的な気持ちでレッスンに臨むことだ。「先生、教えてください」と。(受動的の意味・他から動作、作用を及ぼされるさま。自分の意志からでなく、他に動かされてするさま)

考えれば考えるほど、この気持ちが1グラムも必要ないという結論にたどり着く。

そう、「レッスンとは教えてもらえる時間」とは考えるべきではない。

義務教育や趣味のスクールならありだろう。しかし大学はそういう場所ではない。一から手取り足取りというテイストはこの学舎には相応しくないし、実はそれは良くない影響を生み、学びのリミッターを派生させてしまう。


大学における楽聖は受動的ではなく、常に主体的なメンタルに支配されているべきだ。(主体的の意味・自分の意志、判断に基づいて行動するさま)

レッスンに渦巻く生徒の意図は、常に自分の中から外へ向かうテイストのもののみ存在すべき。何かしらのインスピレーション、気付きになるものは、自らで盗み取り込むものだと、楽聖はもちろん教師も強く認識したい。盗む気のないものは、実は手に入らないようになっているのだから。

自分から発せられる心の視線のみが、実は教師や仲間の表現に内在する「変化の種」を見つけることができる。実はそれは、常に身近に存在していたりもする。

「教えてください」があると、絶対それは見つからない。受動的な気持ちがあると視界が曇るのだ。


指示されたこと、提案されたこと、設定されていることを真面目に取り組むだけでも、ある程度伸びることはできる。そのことには真摯で労力を使える若者も少なくはない。

しかしそれでは大学にいる本当の目的、高く専門的な空気の中に身を置き、自分の演奏と学びが


『自立する』


方向へは向かない。向かないものはたどり着かない。

楽聖諸君、入学時の君の希望が未来の時間叶っているかどうかは、君の意図という、心の視線次第で既にもう決まっているのです。

神は、受動的な気持ちにはさほどのものしか与えないのです。


川越へ。N響定期。

posted by take at 17:55| 活動報告