2017年01月21日

ペンギン再び


先日の海上自衛隊でのレッスンからの新年会、この宴は盛り上がりました。

ブログにも書いた苗字話はみんな興味があるようで、自分の順位から少数派苗字まで、楽しく会話が進みました。

「ペンギンになりたい」という僕の意見に、あからさまに「なんじゃそれ?」という表情になる人もいなかったので、きっと彼らも同じ希望があるのだろう(ただのポーカーフェイスです)。

辺銀さんは、現在は沖縄に一人だけいるようという話題になった時「そういや、石垣にペンギン食堂ってありますよ」との情報が飛び出した。

検索してみると、確かに辺銀食堂ありました。お一人のみの辺銀さん、ここをやっている方でしょうか。

barをやってるなら『ペンギンズ・バー』でしたね。昭和のあの頃、サントリーがやってたやつ。懐かしいわあ。(こちらも検索すると、現在は横浜の鶴見区にスナック・ペンギンズバーというのがあるようです)


で、なんとかしてペンギンになれないものかと、皆で考えたのですが、吉川はじめ、みんなのノーマルな名前で著しく社会生活に支障を来すことはやはりありえないので難しいと。

ただ、過去の認められた例の中に、

『元暴力団員が更正のために必要な場合』

というのがあり、改名するためだけのために一回入ってみるのは?なんて、おバカな意見が出た。(言ったのは僕)

こんなのも。

『「猿田」という氏は珍奇ではないが、一般人に動物を連想させるなど本人や子の人格形成に悪影響を及ぼすため「藤本」に変更』

そっか、動物ならそういうこともあるのか………

じゃあペンギンさんこそ、軽く認可下りるじゃないか!!

女性なら、ペンギンさんにお嫁にいけばいいという話になったが、お一方が独身男性かが不明。すると若い隊員が

「じゃあ私、その確認に石垣島へいってきま〜〜す」

からの

「それ遊びにいきたいだけじゃん!!」

と。

とにかく、ペンギン話なのに、暑く暑く盛り上がったんです。


N響名古屋公演

posted by take at 18:10| 活動報告

2017年01月20日

日本人はスゴイ


今朝は、消防音楽隊のレッスンが9時からということで半蔵門を目指します。この時間帯に都心のヘソを目指すことはそうそうない生活なので、甘くみてました。


凄いのね、地下鉄の混み具合って!!!!


特に新橋での銀座線への道のり。改札入ったら直ぐに人だまりで、しかも静止画。一瞬改札出て違う移動をと迷ったが、既に後ろから人だらけが押し寄せる。末尾に並ぶしかない。

人だまりは、降りる階段の入り口から扇状に広がっている。まるで液体がこぼれたかのような不思議な形の人の群れ。整列ではない。

ただ、昇ってきた人が改札を目指す導線はきちんと確保されている。駅員がそう誘導している様子はなく、利用者たちが暗黙でそうしているようだ。

難所における、集団自発性モラルのなのだろう。日本人ってスゴい。

仕方なく適当に窪んでいる辺りに並ぶ。それが階段の入り口に向かってすぼんでいくにつれ整列となっている。


塊は突然動き出した。電車が来たようだ。群れは皆同じスピードで列を乱すことなく動く。割り込みもイライラ表明も追い越しも無く淡々と。自分たちできちんと乱さず階段へ向かう。集団自発性モラルのなのだろう。日本人ってスゴイスゴイ。

階段に来てもきちんと皆同じようなスピードで並んで降り、狭いホームの奥からきちんと並んでいく。集団自発性モラルのなのだろう。なんてスゴイ日本人。


そして、ついに乗れるであろう電車が到着。

「ドアの前を広く開け、降りる方を……」

アナウンスは意味をなしてない。なぜならドアの前をふさぐひとなんて一人もいないから。きちんとドアの片側だけに詰めより、反対は降りる人のスペースとして開けてある。そして人が降りきるまで誰も乗らず、乗りはじめたらきちんと奥から詰め、そしてきちんと見事に美しくすし詰めになる。皆でぎゅうぎゅうを共有し、協力して詰めっていくように感じる。

まるで「模範的満員電車の作り方」というハウトゥ本の通りに皆が動いたようだ。

これは毎朝発生している、集団自発性モラルのなのだろう。日本人って本当にスゴい。


消防音楽隊レッスン。海上自衛隊レッスン。川越へ。

posted by take at 20:58| 活動報告

2017年01月19日

実は一番必要なこと


数ヶ月前「意図」というタイトルでこの場に書いたことがある。

『レッスンの時間に必要なのは生徒の意図だと思います。先生の意図ではない。以上』

とだけ書いたら、それなりに反響があった。いつになく端的に書いたので、解釈の幅含め興味をもって受け止めてもらえたのでしょう。


じゃあ教師の意図は必要ないのか?どんなんでもいいのか?と言われれば、そうは答えられない。

「自分は目的もなにも、レッスン代のためだけにやっている」なんてのはどうかと思うし、いろんな教師がいるだろうが、やはりその意図は生徒の向上に向いているべきだ。


ただ教師のそれしか存在してないとしたら、実は限界がある。そもそも先生と生徒、どちらの意図こそ不可欠でその内容が重要かといえば、生徒のものであるということは間違いない。


問題は受動的な気持ちでレッスンに臨むことだ。「先生、教えてください」と。(受動的の意味・他から動作、作用を及ぼされるさま。自分の意志からでなく、他に動かされてするさま)

考えれば考えるほど、この気持ちが1グラムも必要ないという結論にたどり着く。

そう、「レッスンとは教えてもらえる時間」とは考えるべきではない。

義務教育や趣味のスクールならありだろう。しかし大学はそういう場所ではない。一から手取り足取りというテイストはこの学舎には相応しくないし、実はそれは良くない影響を生み、学びのリミッターを派生させてしまう。


大学における楽聖は受動的ではなく、常に主体的なメンタルに支配されているべきだ。(主体的の意味・自分の意志、判断に基づいて行動するさま)

レッスンに渦巻く生徒の意図は、常に自分の中から外へ向かうテイストのもののみ存在すべき。何かしらのインスピレーション、気付きになるものは、自らで盗み取り込むものだと、楽聖はもちろん教師も強く認識したい。盗む気のないものは、実は手に入らないようになっているのだから。

自分から発せられる心の視線のみが、実は教師や仲間の表現に内在する「変化の種」を見つけることができる。実はそれは、常に身近に存在していたりもする。

「教えてください」があると、絶対それは見つからない。受動的な気持ちがあると視界が曇るのだ。


指示されたこと、提案されたこと、設定されていることを真面目に取り組むだけでも、ある程度伸びることはできる。そのことには真摯で労力を使える若者も少なくはない。

しかしそれでは大学にいる本当の目的、高く専門的な空気の中に身を置き、自分の演奏と学びが


『自立する』


方向へは向かない。向かないものはたどり着かない。

楽聖諸君、入学時の君の希望が未来の時間叶っているかどうかは、君の意図という、心の視線次第で既にもう決まっているのです。

神は、受動的な気持ちにはさほどのものしか与えないのです。


川越へ。N響定期。

posted by take at 17:55| 活動報告

2017年01月18日

過去、未来、多数


そら演奏にはいろんなやり口がある。そしてそれぞれ他にはない魅力を放ったりする。どれが価値がありどれがないという評価は、個人の趣味の表明の範疇だったりもする。

それでも、ベルリンフィルやウィーンフィルの指揮台に立てる人とそうでない人がいる。運よく一度立ち二度目はない人も。

オーケストラの人間は、続けて来演する指揮者以外は

「わかってないな」

と思っている。


何がわかってないのか?


選択は常に、趣味を超えた多数決的賛辞を得ることが、マネージャーの判断材料になる。チケットは数売れなければならないから。多数の人間の賛辞というのは、違ったりするいろんなタイプなのに、皆にヒットする何かをもっているということ。

それは、スタンダードを理解している人間が、そのリスペクトから逃れられない状態で新しいものを探すということでしょう。

他人や過去を否定しているところからスタートしたり、スタンダードを理解した気になりその模倣のみをやろうとするようだと、結局ファンはいてもマニアの域を出ることはない。

なぜならそれは、ある意味楽な選択だから。

私たちは過去に縛られながら新しい未来を探し、かつ現在の周りの


「多数から」


歓迎されることを目指さなければならない。

その最も難しい命題と向き合う人のみが、未来へと受け継ぐ資格を有している。


N響定期。

posted by take at 11:18| 活動報告

2017年01月17日

鮮度と自分


録音でも録画でも、


「鮮度が大事」


と思いレッスンをしています。録った直後に聞く。たった今何をどうしようとして取り組んだのか、そのディテールまでしっかりと記憶に鮮明なうちにリプレイを聞く。

当然自分の練習でもそうです。ワンフレーズ録って直ぐ聞きまた録ってを繰り返す。一曲通して録って直ぐ聞く。リサイタル全曲を通したのを帰りの電車で聞く。

自分の「つもり」と「結果の印象」を照らし合わせるのには、出来うる限りタイムラグが無い方か自分を変えやすいかと。どうにかして吹きながら客観的に聞けんもんかと、ムチャを考えてたこともある。

そんな鮮度の価値を感じながら、同時に


「ねかした方がいい」


という気持ちもあるのです。

なぜかというと、結局現在の自分はここ最近の演奏を受け入れてしまうという現実も理解しているから。

自分のやり口を本当に客観的に価値評価ができるには、それなりに時間が経ち、そんなつもりでやったことすら忘れた頃に聞いた方が、本当に素敵なのか陳腐なのかが判断できたりする。

つまり時間が経てば経つほど、他人の演奏として評価できる。そのことはある意味一番大事でもあり。

しかし今日録音したものを一年後に聞き、それから直すのも気が長すぎるし。

ただ時には、それなりに昔の演奏を聞いて反省することも大事かもしれない。

あまりに恥ずかしくて 「あの頃は、今よりあれもこれも凄くたくさんのことがわかってなかったなあ」と思えたとしたら、そんな現在は幸せだということなんですけどね。

あー、複雑なので、やはり鮮度にかけます。


N響定期練習。川越へ。

posted by take at 21:58| 活動報告