2017年01月31日
ノーベル物理学化学医学平和賞
昨日思いを馳せた「ぷちぷち」ですが、よく考えてみたら凄い存在である。
物を守ったりする用途として存在しているのに、トイザらスもびっくり、バズ・ライトイヤーもその存在をウルトラ妬みする人気遊具としても実力発揮しまくり。しかもストレス発散やボケ防止(?)に絶大なる効果があるということは、心療関係、カウンセラーもびっくりの医療機器なのである。
人に渡していたら、全てぷちぷちされてしまい、一ヶ所も突起の残っていないふにゃふにゃビニールを片手に泣き叫ぶ子供を何人見てきたことか。
いや、子供のみならず大人たちも
「あれ?残っていないじゃん、全部潰しちゃった?……いや、君さあ、普通残しとくもんでしょ。君だけのぷちぷちじゃないんだからさあ」とか
「えー、こほん、このぷちぷちはー、もう誰もー、やらないのかな」
「社長、それはもう誰もやりません。後はもう社長がお好きなだけ。というか新入りたちやり過ぎですよね。『一番ぷちは社長』ってのは、我が社の社訓のひとつでもあるのに、最近の若いもんは空気を読まず潰して出すばかりで……」
「まあまあ、私もどうしてもやりたいわけではないし、でも君がそこまで言うならまあ、少しだけやってみようかなあ……ぷち」
「さっすが、社長!空気出させたら社長の右に出る者はおりませんっ!!我が社は社長のこの技術と情熱でもって業界を牽引してきたわけでして……」
と、食べ物の恨み以上に強い怨念生む奪い合いが、日夜世界中でなされているのである。
ルーツを辿ると、アメリカのエアープロダクツ社がプールシート用に製造したのが始まりとあります。
1957年、2人の技術者、アルフレッド・フィールディング、マーク・カヴァネスが偶然から発明したもの。2人は簡単に清掃できる壁紙を作ろうと考え、紙の上に布地の模様をつけたビニールをかぶせた壁紙を開発しようとしたが、その際に誤ってビニールに気泡ができてしまったことから誕生したのだそうです。ビッグバンならぬ、ビッグぷちな偶然ですね。
更になんと、日本にはぷちぷちの日がある!8月8日。突起を2つ合わせた姿がアラビア数字の8を連想させることや、突起を潰す時の音「パチパチ」と「88」の語呂合わせから定められたのだと。
いずれにせよ、これだけの人類に対する貢献と、多大なる功績を生んでいることが無二の価値であることは明らかであり、史上発の『ノーベル物理学化学医学平和賞』を授与するに相応しい存在であるとしてですね………
N響練習。川越へ。
posted by take at 21:01| 活動報告
2017年01月30日
petitーpetit
空港カウンターにて。
「楽器なんですけど、箱に入れてください」
「申し訳ありません。ただ今箱の在庫が切れてまして。ぷちぷちに包んでお運びするのでいかがでしょうか?」
「は、はい」
無いものは仕方ない。ていうか、オフィシャルな交渉の場でもアレはぷちぷちと呼ばれとるやんか。
ちゃんとした呼び方ないんかのー?
ありました。正式には『気泡緩衝材(きほうかんしょうざい)』というらしい。
カっタイなー。あんなに柔らかくて楽しいもんなのに。
で、更に調べたら、なんといろんなメーカーがいろんな名前で売っているではないか。
「エアキャップ」「プチプチ」「ミナパック」「エアパッキン」「エアクッション」「エアマット」「キャプロン」「エアーバック」
等の商標が存在しています。
でもみんな「ぷちぷち」としか呼ばないし、それ以外を知らない。名は体を表しまくって他を寄せつけず。
僕もただ返事するだけでなく、こう応えればよかっただろうか。
「あ、気泡緩衝材に包んでくれるんですね。もふもふやふわふわでぐるぐるではなく、ぷちぷちをくるくるなんですね。エアキャップやミナキャップではなくぷちぷちなんですね。まあ箱ではないなら多少もやもやしますが、うつうつしても仕方ないので、その案ではいはいとし、ハレバレとした気持ちとすたすたとした足取りで飛行機に乗ることにしましょう」
最低君、混み合ったカウンターにて、最もいらいらされるキャラやね。
でも大丈夫。裏へ行って、気泡緩衝材でぷちぷちしたりなんならタオル絞りしてみましょう。
「ぷちぷちぷちぷちぷちぷち〜〜〜〜〜っ」
てすれば、ほ〜らあなたのストレスもすーっきり。
帰京。
posted by take at 17:55| 活動報告
2017年01月29日
2017年01月28日
2017年01月27日
感謝は人の為ならず
世の中の人たち、皆が「感謝してます」を多用するようになった時、僕は少し違和感を感じていました。
「ありがとう」や「ごめんなさい」と同じで、限られた必要な時に発する言葉でしょうと。「本当にそう思ってる?」と、うがった見方をしていたのです。
あの頃の僕は、この言葉を唱える本当の意味がわかっていなかった。
体調と同じで、自分の気分もどうしても浮き沈みという波がある。毎日こんなブログを書いていても、実はいろんな状態だったりする。
調子がいいと自然と身体を酷使し、気がつかないうちに疲れていく。どうにもならないまで疲れていったら、ようやくたっぷり寝ることはじめ回復につとめ、気づいたら元気になっていて、また再び……そんなアップダウンの繰り返し。
自分は安定した快調の持続を望むが、そうはいかない。元気なら本能がせっせと動かしてしまう。身体も内蔵も。疲れないようにほどほどに…しない。
気持ちもそうだ。気分が良い悪いだけならまだいいのだが、社会生活に影響ありまくる自分の謙虚と不遜にまで影響が出る。
基本ニュートラルで良いとは思う。365日24時間ずっと謙虚にこうべを垂れなければならないわけでもないと思う。
ただ、たれてみて見えてくるもの、そこから得られるスタンスを柱に努力を続けると、気づいたら嬉しくなるような成果が得られたりしている。自分のことだったり周りのことだったり。これを感じた瞬間から、謙虚に向いた自分の気持ちは不遜の方へ向きが変わる。自分の手柄のように感じてしまうのでしょう。
問題はその瞬間からしばらくは、そんな自分の具合の悪い問題に気づけないことだ。向いたベクトルのまま進み続け、かなり嫌なやつになって、周りとの関係において何かしらの失敗をする辺りまで、どうしても自覚できなかったりする。
子供の頃は、ただ自分の思い通りにならないだけでイライラし、不機嫌になり、怒りを表明したりしていた。
大人になると、必ずしも自分の希望が通らないことを知り、更に周りの希望が通る価値や、その幸せを願うことの大切さを宿していく。それにより、コントロールができるようになっていく気もしていく。
しかし、大人ならではの成功や成果は、子供のものとは違う病として、私たちを不安定に揺さぶる。
この不遜をコントロールし、イライラせず、周りと自分の笑顔を望むのに最も必要なのが、「感謝」に他ならない。
コントロールきかないのなら、毎日毎朝唱えて一日をスタートし、自分を戒めていくのは、大切な生き方でなのでしょう。
高松一高、レッスン。
posted by take at 09:07| 活動報告