2016年12月03日

教えるの善悪


「なんでも教えてしまう」

という、とある教育者に対する批判を聞いた。なんでもというのは、演奏の仕方、表現の仕方、逐一全てということだろうか。

だからといって、全く教えないのも、いくらなんでも現実的ではない。

「全て自分で考えて、自分で研究して、自分で探して手に入れろ。私は、そんな君を叱咤激励するが、何も教えない」

では、いくら聡明な若者でも聡明の持ち腐れになる。

「あの……関心も探究心もあるんですが、とりあえずとっかかりだけでも……」

教えたなら、教えたことと同じくらい身に付く方策を、若者自身が探すことこそ大切。

つまり教えることが悪いのではなく、

「探させないこと」

が問題なのだと思います。

宿題を出せばいいというシンプルな話でもない気がする。

レッスンは刺激的でありたい。楽聖には、なんだか刺激が訪れる。唐辛子みたいに、ピリピリ美味い。

そして、レッスン室を出たら、そのピリピリに多少興奮しており、なんだか手に入れたい気持ちにかられ、反芻し、探す。

そうさせられれば、教えたという行為は、成功したことになるのでしょう。


N響定期練習。大塚へ。

posted by take at 20:07| 活動報告