2016年12月06日

オケマンのたたずまい


僕は、二つのオーケストラにしか在籍してこなかった。普通か……

N響にいるメンバー。生え抜きでN響のみ知っている人もいるが、多い人で過去三つのオケに在籍してきた人もいる。

セクションは定年他でいなくなる人、新しく仲間になる人いるのだが、僕は今まで述べ14人の人たちの隣で吹いてきた。(エキストラを入れたらもちろんかなりの人数になります)


そんな中で、隣で吹いていてプレッシャーを感じさせてくるなんて人は、もちろん一人もいなかった。

しかし、ムードとして余計な緊張感を全く与えない人となると、そうではない人もいる。

それは別に悪いことしているというわけでなく、長く一緒にやるわけで、結果様々な顔つき、態度、表現を見ることになるのが普通。

しかし、指揮者がどんなタイプであれ、練習のムード、演奏自体がどうなっていても、動じず平常心を保っている人もいる。その人との記憶で、こちらが特別にネガティブな影響を受けたことが全くないという。その人だって、不満や不安はあるだろうに、オーケストラの席に座っている時は、一切態度や顔に出さない。

僕なんかは全く誉められず、くだらないこと言ったり、腹立たしい時には指揮者に小さく文句を言ってしまう時もある。

今振り返ってみて、一切周りに負担を与えてない人たちは、本当にオケマンとして立派だなあと思う。


オーケストラをやることは大変なことで、曲も指揮者も様々なことを要求してくるし、周りの仲間の耳も気になる。楽しいばかりというよりは、普通に取り組んでプレッシャーがかかることが多い。

一人のオケマンとして、ポーカーフェイスならぬ、ポーカー態度というのは、人間性もあるが、称えられるべき資質かと感じている。

全ての演奏家は、自分に集中し演奏しなければならないのだから。


N響定期練習。

posted by take at 18:07| 活動報告

2016年12月05日

生きてくれている


様々周りに対して感謝をする。

その理由は、自分は自分の力で生きているのだと勘違いせず、自分以外の人々、事柄のおかげで生きていけている、つまり「生かされている」と心底納得することで、人間社会の中で相応しい言動ができる人間になるということでしょう。他人をむやみに攻撃したり迷惑をかけたり、また自分の人生を悲観しないように。

同時に周りにいる人は、「生きているのが当たり前」といなくならないことに普段は疑問をもたないが、よく考えると、

「生きてくれている」

とも考えられる。

いくつまで生きれば往生かはそれぞれの考え方次第だが、若者だけでなく年配の方々も当たり前のように生きてくれていて、そして私たちは幸せだ。いなくなってしまうことが、実はなにより辛い。

周りの人が生きてくれていることだけでも、感謝に堪えない。

また、自分もありがたいと思うなら、しっかり生き続けなければならない。


N響定期練習。

posted by take at 18:18| 活動報告

2016年12月04日

反スタンダード降臨


最近、新しい真理を目の当たりにし、驚愕し、少なからず困惑もしている。

それは……


僕は、ある意味保守的な考え方が強い人間じゃないかと感じてきていた。スタンダードに対する高い徳を感じるところが強いのも、やはりそうかと思わされる一因。新しいものを嫌うわけでは全くないが、でも過去から続いてきているという事実に、一目おいてしまう。

温故知新なんてのも好きで、その言葉の中にある「昔」「昔から」というものに強く納得し、それこそを理解し柱にしたいと思っていたりする。

うん、保守的だ。

しかし、最近のある研究、そして取り組みは、いろんな部分で過去からのスタンダードな常識の逆っぽくなっている。


楽器は左手だけで持つべきだ。

手首は柔軟に、そこからスライディングをする。

口の中は広くとる。

広い空間を意識して、音を放つ。


誰もが納得しそうな、これらの逆。

一過性の価値観かもしれないし、いずれこのこととスタンダードが融合する納得が訪れるかもしれない。

しかし、今の僕にとって、この現象は自分をぐるんぐるん揺り動かしている。

実験の結果、成果は、明らかに素晴らしい方向へ向かっている。

あとは、保守的な僕がどう理屈のつじつまを合わせるかだ。

さあ、どうしよう……


室内合奏団。N響定期練習。ブロカート練習。

posted by take at 10:08| 活動報告

2016年12月03日

教えるの善悪


「なんでも教えてしまう」

という、とある教育者に対する批判を聞いた。なんでもというのは、演奏の仕方、表現の仕方、逐一全てということだろうか。

だからといって、全く教えないのも、いくらなんでも現実的ではない。

「全て自分で考えて、自分で研究して、自分で探して手に入れろ。私は、そんな君を叱咤激励するが、何も教えない」

では、いくら聡明な若者でも聡明の持ち腐れになる。

「あの……関心も探究心もあるんですが、とりあえずとっかかりだけでも……」

教えたなら、教えたことと同じくらい身に付く方策を、若者自身が探すことこそ大切。

つまり教えることが悪いのではなく、

「探させないこと」

が問題なのだと思います。

宿題を出せばいいというシンプルな話でもない気がする。

レッスンは刺激的でありたい。楽聖には、なんだか刺激が訪れる。唐辛子みたいに、ピリピリ美味い。

そして、レッスン室を出たら、そのピリピリに多少興奮しており、なんだか手に入れたい気持ちにかられ、反芻し、探す。

そうさせられれば、教えたという行為は、成功したことになるのでしょう。


N響定期練習。大塚へ。

posted by take at 20:07| 活動報告

2016年12月02日

微動だにしない楽器


もちろん全ての楽器がそうだろうが、金管楽器をどのように持ち、どのような身体の位置にセッティングし、どのように指を動かすのかは、実はとても重要です。

それは演奏のクオリティにかなり影響がある。極めて微妙な変化であっても、結果に大きな影響を感じる。研ぎ澄ませば研ぎ澄ますほどそう。

一番大切なことは、腕や指を動かした時、楽器本体は極めて影響を受けず、安定していることだろう。それにより、振動のスターターになっている部分に無駄なダメージがなく、身体の動きだけが演奏に影響することができる。そうなることにより、音や演奏のフォルムが整然となり、安心感をもって聴衆に迎えられる。


ピアノは、どんな弾き方をしてもさすがに楽器は微動だにしないだろうから、自分の身体のポジションと動かし方だけの問題になる。

弦楽器は、弓が暴れてしまわないポジション、指の動かしやすさなど、その重要さは計り知れないほど大きく感じる。

管楽器は口との関係こそが一番センシティブ。口を動かして音を変えているので、それが極めて自在になるためには、指を動かしても楽器には動いて欲しくない。

自分の口の方だけ動きたいのだ。

木管も当然大きいだろうが、フルート以外は口にくわえているので、そこで押さえ込んでいるイメージがある。

金管は基本マウスピースを唇に当てているだけだ。支えているのは腕、手、指であり、口元は支える力をもっていない。

チューバは椅子や足に置いているし楽器も重いので、一番ぶれにくいだろう。ホルンは身体も斜めになるので複雑だが、足に置くスタイルもある。

トランペットは、自分の身体より前方向に楽器の全てがあり、空中に浮かしている。二本の腕の位置や手のポジション、身体の重心の在り方も大きく影響するだろう。


問題は、我々トロンボーンだ。

何回も言うが、実は左肩に置いておらず、ほぼ左手で持ち上げたまま演奏をする。楽器前後のバランスは、持ち手の位置で水平になるよう整えられているが、スライドを伸ばせば当然前が重くなっていく。

そう、トロンボーンは全ての中で唯一といっていいだろう、楽器の重心が移動するというやっかいなものなのだ。

そして楽器は、フルートやトランペットよりかなり重い。

更に動かすのは指ではなく腕であり、そのモーションは驚くほど大きく、場合によっては、蚊をしとめるようなスピードで可能な限り最速で動かしたりする。


こんな楽器を、どうやったら微動だにせずキープできるのだろう。


更に息やアンブシュア、舌がうまく動かせてないと、自分の口も動いてしまう。自分は動くは楽器はじっとしてないは。もう、整然とした美しいフォルムも何もあったもんじゃない。


さあどうする……


プロのオケマン含め、世界を代表する名手たちは見た目も自然だが、これは安定した演奏を望んだ心が、身体を理想の方向へ導いた結果であろう。ただ私たちは、更なるクオリティを目指し、細やかに研究すべきだ。身体と楽器の真実を、センシティブに理解していく必要がある。


少なくとも、吹奏楽コンクールの世界に散見する、全員一律に「椅子に浅くこしかけ、背筋を伸ばし、ベルアップ」というのが、楽器演奏の理想でないことは確か。

そんな簡単な話ではない。楽器はいろんな形、重さ、重心であり、吹き手の指も手も腕も様々。

目指すべきは、口元における楽器本体の微動だにしない安定、その指標に対する理解だ。

動きの悪いスライドで平気というのがだめなメンタルの代表になるのは、そういう理由。楽器のコンディション、そして何より自分自身ががさつでいてできるほど、トロンボーン演奏は単純ではない。そこには、まことに繊細な難しさがあるのだ。


川越へ。

posted by take at 13:17| 活動報告