2016年12月21日

うまいか音楽的か


「あなたは、あなたの演奏をどう思って欲しいですか?」

そら「うまいなあ」だし「音楽的だなあ」です。

「いい音だなあ」も含め、そういう欲張り(?)な人がほとんどではないでしょうか。


ただ、うまいなあか音楽的、どちらかを選べと言われたら、僕は

「音楽的」

を選んでしまう、間違いなく。


ただ、こんな人間こそ「うまいなあ」を目指すべきなのだろうと思う。


そこに納得し、プロセスを研究することによって、音楽的だけを目指しただけでは手にいれることのできない「音楽的」にたどりつける気がしはじめています。


N響第九仕事、本番一日目。

posted by take at 20:50| 活動報告

2016年12月20日

研究


とある大学の専任になった人が、かつて言っていた言葉。

「最初に大学から、三つの柱でって言われた。ひとつはレッスンはじめ教育。もうひとつは研究。そして会議はじめ運営。この三つをバランスよく。でもバランスは難しくてね……」

なるほど。大学の専任というのはそうなんだと、その時改めて思った。

僕はどこも非常勤なので会議や運営はない。では残りの二つをやるようにと言われたかといえば、そうではなかった。最初に言われたのは「〇〇時間レッスンをお願いします」だけ。


やる前は、大学の先生はやはり「レッスンをする人」だと思っていた。しかし長年やってくると、明らかにふたつめの「研究」というものが、とても重要で大きなものだと感じるようになってきた。

「教育は難しい」と皆が口々に言うように、自分が持っている知識や経験を伝えただけでは、楽聖たちはほとんど変わらない。もちろん「音程が悪い」「リズムが」と、誰でもできるような現状評価をしても、それだけでもほとんど変化には繋がらない。



若者たちがなぜできないのか、なぜできるのか。何を考えているのか、何しか考えてないのか。何をしようとしているのか、しようとはしてないのか。何がわかってて何がわからないのか。そもそも、自分含めどうやったら上手く吹けるのか。楽器の上達とは一体何なのか。自分はどうしてできるようになったのか、はたまたこれだけしかできないのか。楽聖たちには何を伝えるべきなのか。そして…

楽聖たちは、本当はどうなるべきなのか。


これらのあまりに広大で難解なフィールドの研究は、大学の先生は専任非常勤かかわらず、しなければならないのだと思います。

それを全て楽聖の責任にし丸投げして、研究なんてものはしないという人もいたりするようだが、僕は選ばれた大学の教師なら必要なことだと思う。


なぜなら、そうしないと楽聖も自分も変わらないから。変わらなくていい学舎なんてない。教師が、楽聖のスキル、やる気だけを語っていると、簡単に停滞という気が流れ充満し、成長は右肩下がりになる。

なんたって大学なのだから、そこはポテンシャルの宝庫として、エキサイティングな時間が流れる場所であるべきだと思います。


N響第九仕事、二日目。

posted by take at 22:14| 活動報告

2016年12月19日

ハードクリーム

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学食にてアイスを食べる。

「いつものモナカアイスがないやないかい!」

ひとつを食べきるのによいしょがいるようになって久しい僕は、モナカなら最初に割って楽聖たちに分ければその時食べたいぶんだけ食べられるので、毎回それをチョイスしていた。

アイスボックスの下の下までゴソゴソするみっともない先生を披露しながら、ついにあきらめた食いしん坊は、ソフトクリーム風のやつで手を打つことに。

嗚呼、この形を見るとついつい若い日の悲しい思い出がよみがえる。それは甘くも冷ややかであり、なんともねじれたもので……



やはり忘れられないのは、スクリュー形になった半透明のフタをひねりながら、そのクリームが口の中に甘い幸せをもたらすのを夢見るのだが、なかなかはずれず「えいやっ!!」と気合い一発で、結果スクリュークリームが折れた時。クリームはフタの方にへばりついて外れず、コーンの方は下のプラッチックから出てきてくれず。スプーンも持ってないので、食べにくいなんて次元を越え困難を極め、更にプラッチックに口を突っ込む姿はみっともなく、周りの目も気になり一気にテンションが下落するのであった。


またこんなことも。スクリューふたはスムーズに外れたのだが、コーンを直に持って食べたい僕が、周りのプラッチックをフニュッとつまんだ瞬間、アイスは見事にダイブしながら地面を目指した。こういう時は大抵スローモーションで落ちていくのが見えるのだが、無事受け止めることができたためしはない。なぜなら自分の動きもスローモーションであり、周りは同情の眼差しで僕を見るがどうじようもない。アイスは溶けてアリさんたちのエサになるだけであった。


パッケージから出した段階で溶けかけているうえに、コーンもふにゃふにゃ。自分のペースでなめなめしたいのだが、既に横からコーンをつたってたれていくクリーム。それをなめるとさらにコーンがふやけていく。そうこうしているうちに、コーンの底の辺りに穴が開いてクリームが溶け出ているではないか。こうなるともうクリームマウンテンは置いておいて、下の方からチューチューするしかない。やはりみっともないが、床をよごすわけにはいかないという清潔への指標ではなく、ただただクリームがもったいなく。しかしこの冴えない食べ方をしたいためにこの形状を買ったわけでなく。しかし時間との闘いであり、みっともないなんて言っておれず。

マウンテンがダイブ。少しだけクリームが残ったコーンを片手に、人生の厳しさを学んだ日もあった。


あのー、やっぱりモナカがいいんですが……


N響第九仕事初日。川越へ。

posted by take at 17:01| 活動報告

2016年12月18日

演奏の至近距離


油絵を見て素晴らしさを感じ、そして至近距離で見て驚いてしまう。

「え?!こんな風に塗っているものが、遠くで見るとああ見えるの?」

そして再び離れて見て、納得しなから驚嘆する。

「な、なるほど、たしかにあれを遠くで見てこう見えるのね。この現実と技術知らずして、素人のイメージで書いたって絶対無理やね(当たり前です)」

油絵に限らず全ての絵画がそうでしょう。千葉の土気、ホキ美術館で写実絵画を見た時なんぞ、ずっとキツネにつままれていた。

「これが離れたら写真そっくりに、いやそれ以上にリアルに見えるんかー!!コン!!!」


演奏もそうだ。大事なのは、ひとつの音のフォルム。それが連なってのフレーズ。そのフレーズが連なっての一曲。


ひとつの音をどう感じるか。どう聞くか。どう仕立てるか。


室内合奏団。NTTレッスン。

posted by take at 15:09| 活動報告

2016年12月17日

今のメッセージ


今年のKSKコンサート、僕は本番あり参加できないのですが、紹介させてください。


『第5回 KSK Winter Concert』

2016年12月27日(火)
開場16:30 開演17:00
海老名市文化会館 大ホール

入場無料(要整理券)
会場にて大槌支援の募金活動を行います。ご協力をお願いいたします。

出演団体
神奈川県立希望ヶ丘高等学校吹奏楽部
神奈川県立湘南高等学校吹奏楽部・絃楽部
神奈川県立川和高等学校吹奏楽部・室内楽部・合唱部
楽団ともしび(KSK・大槌高校の卒業生による吹奏楽団)

ゲスト
徳永洋明氏(指揮)
臺隆裕氏(トランペット)・バンドTSUCHIOTO
大槌高校吹奏楽部


僕はプログラムへのメッセージを依頼されました。今日主催側に送ったものは、今の僕の気持ちです。



先日『ハナミズキの祈り』という曲の実演を聞いていて、涙がとまらなくなるという経験をしました。

この曲は、被災地陸前高田市で息子を失った女性のエピソードがきっかけで、高嶋圭子という作曲家の手により生まれたものです。女性の夢に息子が現れ「避難道にハナミズキを植えて」と告げます。母はその実現に人生を捧げることを誓い「ハナミズキのみち」という絵本が出来ます。この本との出会いが、作曲家の琴線に創作へと向かうふるえを与えたのです。

演奏を聞いている間、私の頬をつたう涙は半端なきものでした。被災地への支援曲『ア・ソング・フォー・ジャパン』もそうですが、人が演奏しているのを聞くと自然と涙が溢れてきます。

なぜだろうと考えてみました。もし震災という現実のバックフィールドがなかった場合、この音楽から純粋に感動したり情緒的な気持ちになることはあっても、涙が溢れてとまらなくなるなんてことはないのではないかと思います。もちろん音楽そのものの力はありますが、それだけではなく、被災地や被災者にエールを送ろうと心を砕き演奏するその姿、そして震災の記憶が生む自分自身の感情が混ざりあい、揺さぶられる心が平静を保てなくなるということだと思います。


そんな震災とは、いったいなんだったのでしょうか。それは


大きすぎる悲しみ


だと思います。そんな、複雑でもなんでもない単純な感情。それが現実になったということ。

この悲しみの当事者たちの再生に不可欠なものは、道のりがどんなに複雑であり険しかろうが、やはり単純なものではないでしょうか。それは


思いやり


という人間の心に尽きると思います。大きすぎる悲しみを背負った人たちが、どんなにたくましく、時間の解決と共に自己再生に雄々しく向かっても、この周りからの思いやりなくして二本の足で立ち続けることはあまりに困難です。震災後に自ら命を絶つ人がいなくならないとことが、その不足を如実に証明しています。


遠く離れた神奈川の高校生たちによるKSKという名前の支援は、大人たちが自らの日常にかまけ、その思いやりを本来必要な被災地へ向けることを忘れがちな中、毎年のように力強く団結をし、風化という言葉の限界を示し続けています。

この価値ある人間的思想、人間的行動を目の当たりにし、私たちがなすべきことは、大きすぎる悲しみを思い出すこと。今一度思い出すのです。そして、自分が人間らしく生きていたいなら、その思いやりを行動に移しましょう。

若者たちにできて、大人ができないことは本来はないはずなのですから。


KSKコンサート、アンサンブルレッスン。

posted by take at 19:58| 活動報告