2016年10月11日

一番大事を選ぶ


先日ある人と話していて、その人の意見がずっと

「一番大事なことからそれている」

と感じた瞬間がありました。(大事という言葉のなかには「大切」や「正しい」、「必要」という要素も)

いつものその人らしいっちゃあらしい発言。人当たりも良く、暗いわけでもなく、嫌な人とかとても感じが悪いとかは思わない。だから嫌いな人ではない。

ただ同意を求めてくることが、正直僕にはどうでもいい感じの意見が散見していました。

偉そうな書き方ですみません。もちろん自分が誰よりも正しいと思っているわけではないのですが。


じゃあ、その人のその発言や価値観になる根っこはなんなんだろうと考察した時、一番大事なことではなく、二番目三番目のことを優先して話しているのだと思いました。

愚痴っぽい人なのですが、「自分の気分」がその人の正論の方向性を生んでいくようです。

一番大事なことが自分ではない場合は多いし、ましてや気分の話になると、説得力はかなり薄くなる。そうなると、本当に一番大事なことというのは見失いがちになるのかもしれない。


若い頃から、要所要所で選択を悩んで家人に相談した時

「一番大事なこと、大切なことを基準に選べばいいんじゃない?」

とアドバイスをもらってきました。誘惑は多いし、自分の趣味主観に惑わされることは多々あり、弱さも顔を出すためとても難しい。

人が何かを選ぶことは何かを捨てることなので、その選択をすれば、自分の得や喜びを捨てることになる場合も多い。


結局選択を悩んでいるというのは、より多くの我が身の得を考えてたり、捨てるのを惜しんだり。また「捨ててはならない、人として」なんて多少のモラルも絡んだりすることもあるからだろう。

そして何より、自分が相手より優位にいなければ気がすまないという性根に振り回される。

大抵、バカな選択ばかりのみし続けなければ、問題なく生きていける。ただ選択の癖次第で、自らの環境や付き合う人、生きる時間のテイストは変わってくる。

その瞬間多少の我慢はあれ、実は一番大事なことを選べば、結果自分の気分も大きくそこなわない日常になるだろう。

そして、何が一番大事なのかがわかるようになる、そんな自らの訓練にもなるのだと思います。


「震災と音楽 復興と演奏」

posted by take at 14:34| 活動報告

2016年10月10日

明日へ そして明後日へ


人は誰もが死ぬ。生きる長さもまちまちだ。

しかし無念の死は絶対良くない。残念ながらそんな運命もあるのだが、だからと言って仕方ないとは考えてはならない。

生きている間はお互いの助けを借り合いながら、自らの尊厳に徳を掛け合わせた分だけ、辛くない生活を送る権利が全ての人にある。そうはなってなく追い込まれている人の不遇な生活を、これまた仕方ないと考えるのは罪だ。

さしのべる手を受けとる権利あれば、気持ちある人にはさしのべる義務がある。実はお互い様なのだから。

自分は困ってなくても、それは周りからの手による平穏な暮らし。

できることで良いのだと思います。自分の幸せに対する感謝に思いやりを混ぜ合わせ、とにかく関心をもつ。無関心になってしまわないために。


明日になりました。

東日本大震災復興支援講演とコンサート「震災と音楽、復興と演奏」

19時から。日暮里サニーホールになります。

できることを、できるだけやりたい。生きていけてることに感謝したいから。


N響オーチャード定期。ピアノ合わせ。

posted by take at 22:38| 活動報告

2016年10月09日

正確な心 その2


正確についてばかり書いているが、どうもそういう気分なのです。


魅力的だと思われたかったら、正確さを目指すのが良いと思います。

正確という言葉からは、ついついメカニカルな技術の印象が強くなり、心不在、つまり音楽性という言葉からうける魅力の価値とは対極に感じてしまう。

しかし本当に魅力的な演奏を知っている人は、そのパフォーマンスが「正確さ」に裏付けされていることこそを知っている人だ。マシンが作る正確さではなく、人間が携わる正確さこそが、人間の心を揺さぶることを知っている人だ。

楽器を正確に演奏するのは本当に難しい。気持ち的にも、技術的にも。

正確なだけでそれこそ機械がやるような演奏じゃ……という価値観が、正確とはまた別の幅を探させる。

ただ一度、それこそ機械のように演奏しようとしてみたい。するとそれがあまりにも困難なことがわかるだろう。そこで自分はできなくてもしょうがないと思うか、できないのはまずいと思うか。


リズムや音程、インテンポだけでなく、正確という観念としては曖昧な項目、たとえば数字で示されていない速度、音量とか音の形、レガートはじめとしたアーテュキレィションまで、実は正確があるのかもしれないと、ストイックテイストのような自分当たり前が宿るか。

最後は、音楽性といわれている表現、表情、エスプレッシーヴォやカンタービレ、ドルチェやコンフォーコにまて正確を探すことの重要さ。

僕より不正確なプレイヤーは「吉川は正確」と思うだろう。そして僕より正確なプレイヤーは「吉川は不正確」と思うはず。

問題は、僕がそんな不安定で確実ではないプレイヤーであり、「正確を求めない時間」に安住してしまうことだ。


N響練習。ブロカート。

posted by take at 09:52| 活動報告

2016年10月08日

正確な心


ことあるごとに、正確に演奏できることの重要さを思い知るタイミングがあるのに、その思いの強さが常にマックスでは持続しない。生徒が不正確になってても、それとは別に良い部分を評価して甘くなってしまう。

もちろん正確なことだけが価値の全てではない。しかし最後は正確さとどのくらい向き合っているかが、魅力の印象、その価値の分かれ目になったりする。

「正確」というのは純然と存在する。テンポ設定含め唯一しかありえないかといえばさにあらずだが、しかし個人のスタンスにおける正確は確かに存在する。

不正確に演奏しようとしている人はいないだろうが、それなのに正確への精度はまちまちだ。

実は凄く正確な演奏をする人にとっては、無理しているのではなくそれを当たり前としてやっている。


この当たり前が人によって違う。


誰にとっても無理やり苦労することではない。価値観の問題。そして結果が違ってくる。

正確に対する思いの強さが実はどれくらい正確なのか。みつをではないが

『正確さをは自分の心が決める』

その心の正確さは、自分にも楽聖にも強く要求しなければならない。

メトロノームやチューナーとはまた違う話。心の話。


N響練習。レッスン。

posted by take at 17:01| 活動報告

2016年10月07日

ちゃんとする


コンクールでも試験でもそうだが、幅広い層のレベルだと「きちんと音が並んでるかどうか」「いい音で吹けてるか」 辺りでまずは感じようとする。

だがレベルが高くなればなるほど、最後はテンポの安定、リズムの正確さ、ダイナミックレンジ、息の流れ、そして楽譜通りかどうかが結局何よりも大事だとわかってくる。


つまり、ちゃんとしてるかどうか。ちゃんとした演奏からこそ個性という色彩エネルギーを感じたりする。ちゃんとしてないと個性も薄く感じたりする。

結局それと向き合うしかない。自分も楽聖も「ちゃんとできないこと」があってしまっては駄目だということになる。

わかってはいる、わかってはいてもあまりにも難しく、あまりにも正しいことだ。


オーディションを聞く。

posted by take at 23:12| 活動報告