2016年10月31日

不安呼ぶ奇跡


今日はNHK音楽祭。武満徹さんの曲あり。

トロンボーンは一人三種類のミュート。ストレート、カップ、ハーマンを、あれやこれやと20回近く入れては抜き抜いては入れ。つまり三人で60回くらい入れては抜きをやっている。

トランペットも入れて述べにすると、100回以上。

そして二日間の練習から今日のゲネプロまで、おそらく500回以上はミュートが移動しているだろうに、まだ誰も落としていない。

これは実は奇跡とも言える、凄い確率だ。

問題は、このあと15分後くらいから始まる本番だ。

大丈夫だろうか、一回も

カランカラン☆

といってないのだ。ふ、不安………


NHK音楽祭、本番。

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2016年10月30日

洗練


洗練という言葉に居場所があるとしたら、それは私たち人間にあることこそが相応しいと思う。

人間こそが時間をかけて洗練していく。

人間が使う道具が、洗練されすぎるのは危険もはらんでいる気がします。

たやすくクオリティ高くできる、みたいな洗練が道具にあると、時間そのものに一過性の喜びと賛辞はあれど、人間こそがその道具と共に洗練していくのは難しくなる。

道具に洗練はそこそこでいい。必要なのは、長い人生の時間、共に並走しながら伸びていく、そんな懐という奥行き、許容量。

容易さと万人向けは、人間から洗練への道程を奪う可能性がある。楽は危険だし、結果楽にならなくなることもある。

自分の感性と努力こそが洗練を生むよう、何が楽なのかに対し敏感でありたい。


N響練習。川越へ。

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2016年10月29日

野比のび太


野比のび太の名前は、父のび助が

「すこやかに大きく、どこまでものびてほしい」

と願いつけたとのこと。


なんという素晴らしい名前なんだろう。名前の中に「のびのび」という人生の順調さと、「伸び×2」という、幸福の真理倍付けが盛り込まれている。

こんな名前、ない!!


何をやるにしても、もちろん出来ないよりは出来た方が幸せ。クォリティを意識し、クォリティではかられ、クォリティに左右され、クオリティに悩まされる人生だけど、自分の能力が認められる瞬間の幸福よりも、努力により伸びている実感こそが、生命力に対する何よりの栄養だ。


どんなスキルの人だって、伸びていく力も権利も持っている。つまり幸せを実感する権利。

のび助は、のび太が勉強やケンカにおいてスキルが高くないことは当然知らずにこの素晴らしい名前をつけたのでしょう。

その運命を設定し作者たちは命名した。伸びしろという夢をめいっぱい物語に込めて。


子供の頃はクオリティの評価が低くても、長い人生において結果伸びていくことにより、人生は豊かに完結する。

ある意味、素晴らしすぎる最強の名前にも見えてくる。


スネ夫の決まり台詞 「のび太のくせに生意気だぞ」は、最初から実は勝ちようのない命名に対する、ただの遠吠えだったのかもしれない。


N響練習。川越へ。
肝付兼太さんの御冥福をお祈りいたします。

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2016年10月28日

ぐるんぐるん


今どきの楽聖の気遣いは立派なもんす。僕のお酒が無くなりかけると

「先生、次なに飲まれますか?」

と敬語も立派で御丁寧。「たけ、なに飲む?頼んじゃるけん」とはこない。

しかしこちらが、結構ヨッパッピーのおめでたいハッピッピーなら、この素晴らしい気遣いアプローチが


「先生、次なにに飲まれます?」


と聞こえたりしたりらりらり。(聡明なあなたなら広辞苑より正しく理解するだろうが、このいいまつがい、内容としては正解なのである)


で、たとえ楽聖がこういいまつがったのだとしても、「なに飲まれますかでしょ!」なんてのは野暮の極み。即日失職並の大罪だ。

「なににのまれよーかなー?」なんてボケもレベル低い。大抵ニヤニヤしちゃってるし。楽聖たちは「す、すみません」といいながら、心の中では「ああ、オヤジだ…」と思っている。


正解はこれだ。

私は素晴らしい音楽の電動師なので

「めくるめく変化する、和声の万華鏡に飲まれようかな」



「美し過ぎるフレーズの絡み合いに飲まれようかな」


この場合、若者たちも

「…………」

となったり

「ははは……(小声で)あの、先輩、これどうすればいいんですか?」

なんてなっちゃだめ。顔色ひとつ変えず、

「わかりました」

とだけ答え、迷わずバカルディか、山口の銘酒『獺祭(だっさい)』を頼むのだ。

これこそ無言なるパーフェクト。


「先生バカ、ダサい」


とのツッコミになるのだから。


問題は、意図が伝わらず

たけ「お!さすがだね。付き合い長いね、これが飲みたかったのよー」

と、ただアルコーループに飲まれていくだけで、楽聖にとって余計面倒くさくい状況になっていくわけで………


川越へ。おさらいかい。

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2016年10月27日

世界は広い、本当に その2


ベルリンにいた時、「留学の現実も様々だ」と教わったことがある。これは音楽留学に限らない話。駐在している日本人から聞いたり、様々目の当たりにしたり。

日本にいると「留学している」というだけで、大変にアクティブで充実した学びの中にあるとシンプルに考えるが、そうではない場合も多々ある。

「日本は俺のフィールドじゃねえ」とばかり飛び出して、語学留学という目的で、では言葉を習得して何をするということは定められず、何年にも渡り漂うような生活をしている人もいる。恋人や友人に恵まれず、日本人観光客に対して悪質な商売をする結果になる人いたり、犯罪に手をそめてしまうパターンも。

かつてNHKで、「日本に帰国できない留学生」みたいなタイトルの番組もあった。


留学に限らず、「外を見つめれば大丈夫」というだけの話ではないということ。広いフィールドに飛び出し様々自分を豊かにしていくことができる、というのにも実は人間としての条件がある。


まずは、見聞きしたことの素晴らしさや、吸収するために必要なプロセスやバックフィールドに対して敏感になれるという資質。奥行きを考察することができる力。

そのために、自分自身に目的意識(大きな項目でも、細分化された具体的な項目でも)があり、結果そのことに対して活きるような出会い、気付きにならなくてはならない。

それが無く相対しても「へぇ〜凄いなあ、いいなあ」で終わる。つまり、観光で終わる可能性が高い。

前述の「日本は俺のフィールドじゃねえ」という人は、日本で仕事や人間関係がうまくいかない人に多く、そんなに目的意識に具体性が無くスキルも高くないとしたら、外国へ行ったらもっと無理で、成功どころか学びにすらならなくなる、というのと一緒。

つまり、外を見つめようとする以前に、普段の自分のたち位置にて、既にあらゆることを感じ、学び、吸収し、自己改革ができるような人でなくてはならない。


更に、自分自身の中を見つめ探して、変えていけるような力が必要。

社会は「無限の可能性を秘めた自分自身という人間」の集合体でしかない。ということは己の中にも、当然変化の種が溢れているはずだ。


自分は狭いと定義し、広い世界へ飛び出していくことは大事だ。同時に、まだまだ狭い自分には、広大な可能性があると本能で信じられる力が必要だろう。

でなければ、外へ飛び出す行為自体が、ただの一過性他力本願に終わってしまうだろうから。


川越へ。N響定期。
親の育て方、学校の環境はもちろん大きいが、自分自身が前向きで面白がりや、できればギガ数に恵まれているといいですね。

posted by take at 17:45| 活動報告