2016年09月30日

宿題という可能性


自分を変えられない人は、自信のない人かもしれない。

自分の駄目な所を改善するという自らに対する善行だけでなく、内容や習慣に工夫やアイデアを取り入れ伸びていこうとすること、何より新鮮な日常にこそやる気と充実を感じるためにも、自分を変えてみたいという気持ちは大事。

でも変えられる人というのは、自らの力で変えられた経験があり、そのことが自信に繋がっているというスキル、それがあるからこそ可能なのではないでしょうか。

自信という言葉は「自分を信じる」と書く。自分が信じられるために、そんな経験がまずは必要なのかもしれません。

他人に導かれることだけで変わってきた人だと、潜在的に自分を信じることができず、そもそも変えてみようと思えないのかもしれない。頭のどこかでこれじゃだめとわかってはいても、さあどうするという時にはいつもどうしたらいいのかわからない。周りからはやいのやいの言われ、余計自信がなくなるか、意固地になるかどちらか。

では変えられた経験があるとして、そのスタートはどのようなパターンだったのだろう? 当然幼少の頃の一場面だとは思うが。

きっと何かしらの宿題を出され、それと向き合い頑張って、そしてその結果のオリジナリティを評価してもらえたのでしょうね。そうやってプロセスの価値が自然と染み込んでいく。

それが喜びになり、重ねるうちにパターンも身に付き、自分は

「探して努力すれば変われる」

という自信がもてる。


やはり大事なのは、宿題を出すこと。その内容だろうか……


N響定期。


posted by take at 19:52| 活動報告

2016年09月29日

男子複雑に入らず


女の人は 「男って単純ね」と言う。

このように言われた時、自分に余裕が無いと 「いや、男は君が考えているより複雑な裏側もあるんだ」なんて真顔で答えてしまう。

多少余裕があると 「いやー、男だってたまには考えてから動きますよー、はっはっはー」とおちゃらける。

更に余裕しかないと 「たーんじゅーんでーーす」と踊り出すだろう。

ね、多少は単純以上のバリエーションあるっしょ?


男は単純と言うなら「女性は複雑だ」ということになる。しかも女性自身の評価としてでだ。

これを女性に投げた時 「そんなことない、女も単純よ」という風に返ってきたことは一度もない。

「そう…ていうか女って面倒くさい」と、大抵の場合返ってくる。

これはきっと自分以外の人の話で、コミュニケーションのこととかだなと思って突っ込んでみると、中には 「自分も時々面倒くさい」というのも聞けたりする。

どういうことだろう。制御が効かない、コントロールが難しい時があるということだろうか。

物凄く知的に考察すると、男である自分もイライラしてたりうまく頭が回らなかったりと、コントロールできてない時がある。まるで大抵はできてるみたいな書き方だがその通りで、なぜ物凄く知的にかというと、自分では自覚が薄く基本うまく制御しながら生きていると自意識は満点バッチリたったりするからだ。

ここいらが、男が単純だと言われる所以だろう。

女性は喋りながらリアルタイムで発言を反省することもあると聞いたことがある。男からすると驚異的、脅威的メンタリズムだ。

見栄が邪魔をし、ベストな喋り方がわからない時はだまる。喋りだしたら反省をする余地がないくらい見栄という濃度の高い原液に支配される。

ということは 「見栄が単純」ということになるのだろうか?

う〜ん、テーマが複雑過ぎて単純な頭ではここが限界です。 それでもこれだけ書いたんだから

「俺ってスゴイ」

………単純なんじゃなくて、おめでたい、つまりおバカってことですね。


N響定期練習。川越へ。


posted by take at 09:59| 活動報告

2016年09月28日

悠久の時に横たわる偶然


きっと、小さな偶然は毎日のように経験しているのでしょう。気がつかないで過ぎてしまっているものも多いのだと思います。

会う確率の低い人に会う確率の低い場所で会う、できる確率が低いと思っていることが直ぐにできたりすると

「凄〜い、偶然!」

となる。それが印象に残るものであればあるほど、人に話したりもする。

偶然は瞬間に訪れたりするような快感なので、その日は誰かに話しても、翌日、翌々日になるともう興味からは外れていき、忘れてしまうものがほとんどだ。


ただ、長い人生の時間に横たわるように存在する偶然もある。


以前も書いたが、僕が18才まで暮らした高松の家は古馬場町(ふるばばちょう)にあった。本籍も香川県高松市古馬場町だった。ドイツから帰国し住んだのが、大田区中馬込(なかまごめ)、そして現在の住まいは品川区の新馬場(しんばんば)。

古馬場に生まれ、中馬込を経由し、新馬場に住んでいる。

これは狙ってそうなったのではありません。僕が引っ越して1ヶ月ほど経った時に、駅のホームで新馬場の看板を見ながら突然気がついたのですから。

中馬込はともかく、古馬場は18まで暮らしたわけで、家を決め契約してる最中に気づかない僕も僕ですが、人に話すと

「信じられないような偶然だね」

と言われる。よくよく考えると本当にそうだなと思う。


先日、家の直ぐそばででっかいガマガエル(ヒキガエル・食用ガエル)を久々に見た。住宅街のアスファルトの上で、置物のようにたたずんみながら雨に打たれていた。

これも以前書いたが、東京へ出てきて住んだ家、その近所全てででっかいガマガエルと遭遇している。板橋区常磐台、新宿区神楽坂、文京区白山、大田区中馬込、そして今の家。しかも中馬込以外は複数回。中馬込は、離れる少し前に一回だけ。出会った瞬間、「ここでもやっぱり会えた」とつぶやいたのを覚えている。

馬とかえるは、もしかしたら僕の守り神かもしれない。


逆に、「もっとあるんじゃないかなあ」と思いながら、記憶の限りでは人生で一回しか経験してないことがある。

それは、買った物の値段と財布の小銭入れに入っている金額がドンピシャだったこと。コンビニにて、たしか768円とかそんな金額だったと思う。百円と五十円と十円と五円と一円を全部取り出したら、その金額だった。

皆さんはよくありますか?

僕的には、最初で最後の偶然でチョー快感。興奮して、店員さんに「ピッタリでした!」と叫んじゃった程です。


悠久の時の流れに横たわる馬場、かえる、毎日の支払いからの一瞬の幸せ、そんなお話でした。


N響定期練習。川越へ、アンサンブル学内。


posted by take at 16:46| 活動報告

2016年09月27日

ボケ・ムジカリッシュ


今日のイチぼけ。

パーヴォ・ヤルビィの場合、今のところ100%対向配置。コントラバスははるか下手の彼方に。我々の目の前には、いつも下手にいるハープが二台鎮座。(ラフマニノフ交響曲第三番)

チューバのエキストラと吹き方の話になる。

たけ「コントラバスの弓が全然見えないから、音だけで息のスピード調節しなきゃね。対向配置はいいんだけど、僕ら的にはそれだけがなあ……」

ね、オケマンらしいアカデミックな会話でしょ。

たけ「でもそのかわり、普段はなかなか見ることのないハープを弾いてるのが間近で見られるよねえ……」

僕がそう話したチューバ奏者、よく考えたら奥さんは、昔からうちとも付き合いのあるハープ奏者でした。

ぼけたけ!おそまつっ!!


N響定期練習。ジパング。


posted by take at 17:20| 活動報告

2016年09月26日

アプローチの鮮度


かつて生徒が、外国にてある著名演奏家のレッスンを受けた時のこと。「音だししていいよ」と言われ吹いていると、しばらくして止められて、

「僕は君の何十倍も神経を使って音を出してる」

と言われた。

これは、レッスンが始まる前から凄いパンチをくらった印象だが、この、音を出す前が大事なのか出してからが大事なのかは、実はとても大事。

もちろん出してからがどうでもいいというわけではない。しかし出す前、その瞬間にプレイヤーとして何をしようとし、どうなっているのかは本当に大事。

出す前にあれこれ考えこんでしまい、自然に「ためらわずポン」と吹けなくなるのは良くないが、吹く瞬間

「心も身体も雑になっている」

としたら、その方がまるで良くない。


ただ「丁寧に吹こう」というよりは、あらゆるやり口、あらゆるニュアンスで音は発せられるべきで、実は一種類のアプローチにはならない。

前出の演奏家も「神経を使っている」と言ってるだけで、「決まった吹き方をしている」とは言ってない。

もしかしたら音は、出す度に違うことを表現しようというくらい、千差万別でなくてはならないのかもしれない。

だとしたら、雑に気が散った状態で、限られた数のアプローチしかできない場合ではなく、「なんとセンシティブに取り組まなくてはならないことか!!」となる。

吹く瞬間の欲求の質、その高さと細やかさと強さ。何より、

「今までにない」

と、新しいことをしようというくらいの新鮮さこそが、私たちの音を素晴らしいものに変えていくのだろう。

私たちは留まっていない。時間と共に変わりながら生きている。

理想は鮮度が命である。


川越へ。

posted by take at 21:24| 活動報告