2016年07月23日

赤裸々


今日は、ネガティブな話を書きます。すみません、好きではない方は読まないでください。m(__)m


大学、高校で教えていると、昨今の若者たちの心の闇とどうしても向き合わざるを得ません。幸い今、東邦沖縄共に僕のクラスにはいないのですが、周りには本当に多いのです。不登校、退学、鬱、レッスン中の涙、更には号泣、とにかく深く悩んでいて……

この心の病、なにがそうさせているのか、日本全国の教育現場で様々話し合われていることでしょう。僕もあまりのことに、周りと語り合う機会も増えています。

やはり世相は大きいだろうとの意見をもらいました。

どんなに時代が変わっても、人間としての本質、若者としての本質は変わらないはずなので、結果に違いを感じるとすれば、環境や習慣、教育の違いなのでしょう。

私たちが10代、1970年から80年代、昭和でいうと50年から60年のあの頃、もちろん私たちも同じように多感だったわけで、悩んではいました。ただあの頃はあの頃で、特徴ある独特な時代だった。

高度経済成長は、昇っていくように変わる日本をはっきりと実感させたし、問題提議や議論は今と変わらず激しくなされていたが、同時に、世界の中での日本の経済や教育の「勝利テイスト」が、私たち国民に目に見えない夢や希望を生んでいた。

「これから先も、私たちの国、生活はどんどん良くなるのだろう」

みたいな。

バブルの末期に社会に出て、その後、泡ははじけてしまって暗雲立ち込めても、実は20代半ばまで「上昇気分」で育った私たちの世代は、どこか能天気な部分がある。「いつか、なんとかなるっしょ!」みたいな。多くの同世代がそう感じており、よくそんな話もする。


方や現代。

テロ、覚醒剤、震災、原発、年金、異常気象、都知事・号泣議員はじめ、戦争を予感させられる政治不信……日本だけでなく、世界を覆いつつある先に対する不安。

若者たちは逃げ込むようにゲームとネットに興じる。進路や生き方に関してネガティブなことや、だからこうしなければなんてことに対して、妙に現実的だったりする。



そのネットなのですが、明らかに僕らが若いころ見なくてすんだものを、現代の若者たちは見てしまうことになっている。それは

赤裸々なネガティブ

たとえば、今朝Facebookを覗くと、僕が見た範囲の半分以上が、ポケモンGO利用に対する問題提議、都知事選候補者への誹謗中傷、ミュンヘン銃撃事件、何かしらの文句、で溢れていた。

僕は、基本Facebookは話題のテイストは自由だと思うし議論もありだと思っていますが、ただ、10代はじめ若者たちもこれを見ることになるという現実があることは考えてしまう。

発信の自由の方が、現実的影響力を凌駕している印象。

ネガティブな話題は、問題提議的意味合いを感じると共に、場合によっては個人のストレス発散に利用されているイメージも。ツイートの言葉も、あまりに赤裸々なものも多い。書き込みで賛同したり反対したりする際に書かれる罵倒や攻撃は、読む側が驚愕するほど鋭利だったりする。「本人目の前なら、絶対使わないだろう言葉」は、凶器の狂気のようにうつることも。

僕も大学生や数人の高校生とは繋がっていたりする。彼らも少なからず、大人のやり取りを見ることになる。もちろん同世代とが多いだろうが、それでも大人の本音のようなものは、見る機会も多いだろう。

更にTwitterやlineになると、友達たちの「裏の顔」とも言うべき言葉の数々を見てしまい、素直にものを考えたり、信じたりできなくなる。

彼らを取り囲み包んでいる世相も、身近に目の当たりにするネット上も、暗い言葉たちが溢れており、自分の当時を忘れてしまった私たち大人が思う以上に、

思考というより吸収

が多い世代には許容量を超えており、本来あるべき、希望や明るさ、シンプルさが明らかに失われている。

このことは、大人たちの気づかないところで、子供たちを深く悩み苦しませている、大きすぎる原因ではないだろうか。我々が現代で10代だったとしたら、明らかにあのころの自分とは違う閉塞感と共にあるだろうし、今とは全く違う50歳になる可能性は高い。


こんなブログを毎日書いている僕には言う資格はありませんが、大人たちは赤裸々になりすぎているかもしれません。

10代までは、もちろん反面教師が効果的に人を育てることもあるでしょうが、だがしかし、本来は大人が模範になり子供がまんま吸収することが大事。それを、複雑に選別したり考察したりしながら、ネガティブに打ち勝ち、明るく元気に生きていくのは、私たちが思っている以上に大人になってからなのではないでしょうか。


レッスン。N響、三河安城公演。

posted by take at 20:12| 活動報告