2016年07月11日

脱ムラびと


演奏にムラがある。出来のよい部分と良くない部分があったり。それは技術にムラがあるということですね。

ムラの無い演奏ができる技術というのは、ホント大事。コプラッシュの存在意義は 「ムラを無くせ!!」みたいなものです。

「この音型、どんな音域でも、上がろうが下がろうが、ひっつこうが跳ぼうが、とにかく同じように、ムラが無いように吹いてみぃ!!」

と、コプラッシュさんは叫んでいる。入試、レッスン含め、このエチュードに世界中が価値を求めるのは、ムラ無き技術こそ重要と潜在的に理解できているからでしょう。


この「脱ムラ価値」ですが、私たちの人生の時間にもガッツリ横たわってたりします。

若い頃、仕事場でもよく聞いた言葉、

「彼は顔にでちゃうからね」

「吉川は、あの頃から随分表情も落ち着いたよね」

当時、厳しい雰囲気に支配されていたN響で、しんどいことがあったり厳しい当たりに対して、大人の対応ができず、不機嫌、不服が面にでてしまう。日常的にも自分だけのペース、気分の善し悪しがでたり。まあ、善しが出るのは問題ないでしょうが、悪しが分かりやすく出ることを周りは歓迎しない。

これを克服するのは、気分のムラを無くすこと。自分で悪しき感情をコントロールし、周りに気を遣わせない安定感を装備する。

メンタルも、社会にいる長さに相応する大人になるということ。


また身体も。若い頃は、その時やりたいことをやり、動きたいように動く。結果ばてたり、時には壊れるくらいまで具合が悪くなっていたりした。

年齢と共に、社会に組み込まれている自分の、不備のない安定感を持ち合わせる責任感が大きくなってくる。故にムラのない体調こそを意識した上で、ストレス過多にならないようコントロールしながらやりたいことをやる方策を選び始める。

与えられたであろう人生の長さ生ききるために、相応するムラのない体調を管理する大人になるということ。


とにかく、体調も、気分も、技術もムラがあってしまう。というか、ありまくってしまう。なんたって人間ですから。

そんな私たちが、ムラが無いよう努力することは、簡単ではない。困難に立ち向かうこと。実は、とても美しいし、素晴らしいことなのだだと思います。


川越へ。

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2016年07月10日

山手線物語 2016夏


品川から渋谷を目指す。

山手線は凄くは混んでおらず、車両端の三人席に一人で座れる。

大崎で若い男が乗ってきて、隣一席空けて座る。渋谷で遊ぶんだろーなー感満載、ちょいとチャラい感じのにーちゃん。

五反田で、60才くらいだろうが若々しく見える御夫婦が乗ってきて、目の前に立つ。旦那さんが、奥さんを僕とにーちゃんの間に座らせた。次の瞬間、若者はスクッと立ち上がり

「どうぞ」

と。おじさんは遠慮したが、彼はそのまま扉の横まで歩いていき席を譲りきった。

おじさんはお礼を言って座り、隣の奥さんに 「年寄りに見えたのかなあ」と笑いながら小声で話している。ちょいちょい見る光景だが、

「いや、年寄りに見えたんじゃなく、カップルで座ってくださいってことだと思いますよ」

と、僕の心がつぶやく。素敵な思いやり、カップルシート譲りというのは結構あるのだと思うので、素直に譲られてあげるのも大事ですよね。

目黒で可愛い男の子を抱っこしたお母さんが乗ってきて、扉の横に立った。ちびすけ、二歳くらいか。

端に座っていたおじさんは、「今度はオレの番だ」とばかりに席を譲ろうとするが、お母さんは 「いえ、直ぐ降りますから」 と固辞。

ちびすけは、抱っこされたままつぶらな瞳でおじさんをじっと見つめている。おじさんも、でら可愛い彼とコミュニケーションをとろうと懸命。笑いかけたり、手をふったり。 ちびの反応は無いが、でもおじさんをみつめることはやめない。

渋谷では、やはり若者が降りる。そしてお母さんも降りるようだ。おじさんに向かって 「ありがとうございました」と、譲ろうとしてくれたお礼を言う。

「いえいえ」と言うおじさん。お母さんが息子に向かって、「バイバイは?」と言うと、小さな手をくるくるさせておじさんを喜ばせたのでした。

チャラい若者は、幸せを呼ぶいいことをした。

レポートしてるお前は譲らんのかってな感じですね、ははは……


N響、オーチャード定期。

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2016年07月09日

善意の人


「善意の人」という単語を聞いた。ある人を評しての言葉として。

善意の人がいるなら悪意の人もいることになる。ただ、心が澄みきっていて悪意は欠片もなく、100%善意という人っているのだろうか。100%悪意とか。

いないでしょうね。基本ポジティブ基本ネガティブと同じで、軸足がどちらにあり気味かと、各々が自分の中に派生するパーセンテージの問題なのでしょう。

ただ、善意の人がやらないこと、悪意の人がやらないことというのは必ずあり、お互い

「誰だってそう考えるに違いない、誰だってそうするに違いない、誰だって場合によってはそうする、誰だっていずれそうなる」

と考えるのが一番違うと思います。違うというか危ない。

お互い、自分の知らない世界が相手の中にあるわけで、たとえ少ないパーセンテージを持ち合わせていても、思考のパターン、行動のパターンは、後付け的に理解はしていけても、決してわかりきらないものだと思います。わかった気になるのが実は怖い。


善意は基本歓迎されるが、悪意を知らない善意は、時には力弱かったり、人を傷つけたりもする。

力強い悪意というのは大変に困るが、力強い善意こそを宿すためには、自分の中にある悪意と、はっきりと向き合う勇気と知性が必要なのでしょうね。

それを認めた上でそれをコントロールする。そして、基本悪意の人を見定める洞察力をもちながら、否定しきらず前へと進むことだと思います。


え?お前は自分をどちらだと思ってるんだ??

そら、よく登場する我が悪意に負け気味な善意の方なんじゃないでしょうか?

ち、違う?????


N響練習。ブロカート金管分奏。

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2016年07月08日

継続は幸福なり


同じ人と同じ環境で長く続ける。

続けられなかったものは、相性が相寄れなかったものなのだろう。人、内容。

続けてこられたものは、相手が随分受け入れてくれた感は強い。もちろん、自分もその人たちに合わして多少なりとも変えることができた関係なのだろう。


ジパングの仲間たちには、心から感謝している。彼らとでしか出来ない演奏スタイル、ただでさえ最初から定まっていたとは思うのだが、年々更にやりたいように自由にやりながら、音楽的疑問点がなくなりながら進んでいる。彼らは僕を認めてくれ、僕は彼らから影響を受け、もう本当に違うやり方は無理な方向へ一直線だ。四人ともが、同じ印象を共有していると信じられる、なんとも慣れたムードに包まれている。


ブロカートにも、同じような印象がある。ただ、指揮者兼指導者なので、一方的なベクトルもあるのだが、それでも長く続けている人たちが、僕を受け入れてくれている印象もふくらんできた。彼らの趣味の充実、喜びの時間のために、もっともっと貢献したい気持ちも強くなっていってる。あきられないために進化したいと同時に、やり口を信じて認めてくれていると思えれば、素直に進んでいくことができる。


N響もNーcraftsも同じ印象。他のことより同僚テイストの環境を意識せざるを得ないので、硬くなる瞬間もあるが、その緊張感あってようよう大きな失敗をせずに進んでいけている。


そして家族こそが、僕を大切にしてくれ、影響を与えてくれ、安心させてくれている。


幸せを実感できるのだから、なおさら若い世代に還元できるよう、働いていかなければならない。

東邦音大も沖縄県芸も、心からありがたい場所を与えてもらっている。

そこにいる未来ある若者たちの時間を、しっかりとサポートしたい。


川越へ。

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2016年07月07日

大学生と時間


日本の大学、外国の大学。その違いを語る時、一番メジャーなのは

「日本の大学は入る時が大変、後は楽。外国の大学は入るのは簡単、卒業が難しい」

最近は言わないかなあ。10年くらい前まではよく言ってた気がする。


日本のあの頃は、現在の韓国や中国のように 「受験戦争」 「受験地獄」 なんて言葉が若者にプレッシャーをかけまくっており、国公立も有名私立も合格すれば大騒ぎ。大学の間は人生の中での猶予を貰ったような気分で学び、遊び、卒業に関しては試験のレベルが大変というよりは単位が取りきれるかであり、凄い難関というイメージではなかった。卒業よりは、これまた入るためである就職試験の方が難関ハードルだった。

外国の大学のことは詳しくは知らないが、入学は全然大変ではない場合も多いと聞く。国によっては学費も無料だったり、びっくりするほど安価だったり。しかし学年が上がるに向けてのレベル査定、そして何より卒業試験が大変に厳しい。トロンボーン専攻なら、アルブレヒツベルガーとマルタンとトマジとクレストンを完璧に吹かなければならないとか(妄想しすぎ?)。


昨今の日本の大学状況は、かつてとは随分変わってきた。少子化の波は目に見えて激しいが、大学の合格枠は変わらないので、私立大学は学生の取り合い。国公立大学も合格者のレベルは高いのだろうが、倍率自体は明らか下がってきている。

そして内容も。実は年間授業日数は増えている。大学によっては、夏休みはじめとした休暇も高校までよりもかなり短い。かつてが緩かっただけだが、様々な授業、音大なら音楽関連のみならず一般教養への出席査定は厳しく、(これはもちろん良いことだが)合奏やアンサンブル他、参加しなければならないことも増えた。更に学費の高さ、親の経済状況により、ガッツリバイトしなければならない学生、いわゆる苦学生も増えた。

つまり今の日本の音大の学生は、あの時代よりも忙しくなっていることは確かである。自由がきいたあの時代と比べ、設定された義務的取り組みの枠が増えた学校としての雰囲気は中学高校に似てきており、場合によっては中学生高校生より忙しい。

義務教育から高校、そこから社会に出るまでの間の数年間、自立を身につけよとの如く、自由になる時間が与えられ、学問にも恋愛にも遊びにも、更に怠惰な時間にもせっせと励み、失敗成功繰り返しながらいろいろ考え、成長した上で社会へ出ておいで、といった「猶予風時間」というテイストは、大分薄くなった気がする。


しかしどうだろう。学舎として、厳しく充実していることは大事だし、「脱ゆとり」なんて言い出してるからこれから更に厳しくなるのかもしれないが、内容の充実こそを望みながらも、実は大学生に一番必要なのは


「時間」


ではないだろうか。

「いや、授業は休まず出るべきでしょう、学生の本分ですから。レッスンだ練習だで休むというのは本末転倒でしょう。そのために放課後練習ができるようになっているじゃないですか」

ある一般教養の先生の言葉。それぞれの授業を担当する先生の側からしたら、そういう意見になるだろうが、そんな教員たちが大学生だった頃は、もっと総じておおらかだった。

あれやこれやで多忙になったとして、許容量とアイテムの多さからくる集中力の限界により頭に入らない、つまりそこに居合わせたけど何も残ってません、なんてことにもなる可能性も高い。

ある意味、独善的感覚風思い出だが、僕が経験した学舎、昭和の終わり頃だったが

『専攻最優先』

で、他のことは、なんとその先生方の方から多目にみてくるスタンスで、こちらがびっくりしたほどだった。「皆さんは音楽と練習に集中して、立派な演奏家になってください」と。学生の不真面目な取り組みを、本当におおらかな目でみてくれた。実はそうであっても、真面目に出るやつは出るし、出ない者はでなかった。

授業のみならず、とにかく大学生たちは自由だったイメージが強い。

何より時間があった。

忙しくさせたがる人たちが不安に思う、不真面目でだらけた人間になるのは実は簡単だったかもしれない。しかし追われていたイメージはなく、その分結局あれこれ考えることは凄く多かった。音楽、楽器、自分の価値観、不安な未来、お金、コミュニケーションのこと、恋愛、そして人生。


大学生が、そもそも何をすべきかは、周りはいろんな考えがあるだろう。

しかしあの世代、あの立場に、もっと時間を与える環境であってもよいのではないだろうか。


ジパング。

posted by take at 21:51| 活動報告