2016年07月16日

風をひく


風邪は万病の元などと言われるが、実は風も病のひとつだったりする。それは 『風(ふう)』 という病。

症状:見失える、やっている気になる、勘違いをする

処方箋:精査



かつて、さぬきうどんの名前が日本全土で乱用されたことに対し、「何をもってしてさぬきうどんを名乗れるか」みたいなのが話題になったことがある。同時に「手打ちうどん」と「手打ち風うどん」も話題として盛り上がり、その頃この「ふう」について、随分考えたことがある。

たとえばバッタもん、パッチもんなら、ふうというより「ニセモノ」になる。前述のさぬき手打ち風うどんは、手打ちうどんの偽物ではなく、「実は手打ちではないが、手打ちくらい美味しいよ」とのアピールとなる。ただ消費者としては風が付くと、どうしてもクオリティが低いのではないかと思ってしまう。

私たち演奏家がかかる風という病は、低いどころではなく間違いへ向かう恐ろしさが、実はあると思うのですが……


今月は、なはんこや(那覇となんこや)にて、「木と森」、そして「ムラ」について楽聖たちと随分研究をした。そんな中あらゆる演奏の不備に関して、

「きちんと精査しようと向き合えているのではなく、精査風、向き合ってる風ということなのではないか」

と強く感じ、彼らにも投げることになる。

一番感じるのは、テンポでありリズムなのだが、純然と割りきれるように設定されている音符の長さというものを、正確に刻みながら吹いているのではなく 「刻んでいる風」になっている。インテンポや正しいリズムというのは、きちんと精査するように刻んで初めて実現できるが、じゃあ寸足らずだったり間延びしたりの曖昧なリズムは、なぜ生まれるのか?どういう取り組みが生み出すのだろう?

それは、目に見える楽譜の音符、そのリズムを 「この音符は、大体こんなタイミングだったよな〜」と、極めてざっくりと脳が判断し、再現し、それでちゃんと吹いている気になる。つまり本物へ向かって精査をせず「リズム風」をやり、きちんとした気になっている。実は「風」は、そんな危険、かつ重症な病だ。


( ´△`)きちんと刻んでいる風

( ´△`)ムラなく音を並べている風

( ´△`)いい音を出している風

( ´△`)アーティキュレイション通りに吹いている風

( ´△`)ダイナミクスをきちんと表現できている風

( ´△`)本当に自分が吹きたいことをやろうとしている風 ナド


前都知事がオフィシャルな場で使ったため、一瞬使うのがはばかられる単語になった「精査」だが、僕は好きでよく使う。それは「風」にきちんと対抗することができる数少ない言葉のひとつだからですが、今一度、なかなかに厄介なかぜをひき、

「ふうに犯されている」

と自覚し、楽聖にも自分にも精査を処方する必要性を感じています。


レッスン。NTTレッスン。

posted by take at 09:26| 活動報告

2016年07月15日

ビーチという芸術的楽園


昨日は、夕方までのレッスンの後ビーチパーティーだった。

沖縄のプレイヤー、楽聖たちが企画してくれたもの。車で北へ一時間。結構島の真ん中まで行ったよう、西側の海岸。素敵な海辺でのパーティーとなった。

沖縄の人たち、ひと夏3,4回はビーチパーティーに興じるという。早くから予約し、バーベキューができる屋根付きスペースを確保する。昨日のビーチは、飲み物は自分たちだが、肉は地元で養豚されたもの他を用意してくれる。最高!

実は沖縄人は、海で泳がないらしい。泳ぐのは観光客だけ。紫外線、日射しが強すぎる中で泳ごうとは思わないのだそうだ。ので、夕方からがちょうどいい。それでもしばらく青空が続き、陽は長く、ゆったりと時間は流れていく。

ビールで乾杯から泡盛へ。バーベキューが一段落ついたら、焼いたり食べたりの楽聖たちは、みんなして海へと入っていった。

僕はうちなープレイヤーと、楽聖の成長ぶりやこれからの話、お互いの活動や希望について語り合いながら、遠浅の海で戯れる楽聖たちを眺めていた。


たけ「よし!僕もつかってきます」

私服で膝下までつかっていたら波にさらわれ、気がついたら浮かんでいた去年とは違い、今年は水着に島ぞうりと完璧にコーディネート。珊瑚礁の海へと入っていった。

海は冷たくない、というかぬるい。でもすごく気持ちいい。そして強い風が吹き続けるが、これが嫌じゃないどころかかなり快感だ。昨年と同じく、浮かんだまま沖縄の空を眺め、ほわ〜んと漂い続ける。


僕は、沖縄の海もだが、空が物凄く好きだ。


それは本州のどこでも、またヨーロッパのあちこちでも見たどの空とも違う。広大なパノラマは艶やかすぎるスカイブルーで、見たこともない形の雲たちが見たこともないデザインでちりばめられ、凄いスピードで変化しながら流れていく。なんとも芸術的な映像だ。

地球上の空は、どこも同じではない。きっとまだ知らない、見たことのない空がたくさんあるのだろう。

青から朱色、そして紫から紺へ。沈む夕陽が雲に色づく驚くほど美しい色の動く絵画を眺めながら、気持ちよい海に浮かび、爽やかな風に吹かれる。もちろん、この場所にこそ合う泡盛がほどよく回っており、穏やかな時の中での開放が、僕を幸せの頂上へと導いてくれている。


楽聖たちとこれからの話をしながら海岸を歩く。未来に希望も不安もあるであろう彼らも、今は開放感を満喫しているからか、夢もおおらかだ。


あたりは暗くなり、三線を弾くおじさん、踊る若者たち、外人やカップルもいなくなった。バーベキュースペースと砂浜の間に拡がる草のじゅうたんに皆で寝そべる。みな大の字。星空を見つめ語り合う。


沖縄のビーチを包む海、空、風。

生きている喜びが身体と心に充満するこの空間、夜空が流れていく時間までが、僕をファンタジーの世界へと案内してくれたのでした。


沖縄県芸、レッスン。帰京。

posted by take at 21:51| 活動報告

2016年07月14日

歩かんさー


沖縄の人はとにかく歩かないらしい。


たけ「町行く人、君が見たら、うちなんか観光客かわかるでしょう」

うちなー楽聖「だいたいわかります。歩いて通勤している人いたら、本土から移住してきた人だなってのも」

たけ「そ、そこまでわかる!てか、そんなに歩かないの?!」

そんなに歩かないらしい。直ぐ近所でも車に乗る。歩くという発想自体がないとか。町がコンパクトだし、風も気持ちよく歩きたくなるが、それはやまとんちゅだからか。たしかに昼間は気温も湿度も高いので、危ないという感覚かも。買い物も基本夜らしく、スーパーも12時や1時まで開いているのが普通だそう。

確かに大学を目指す道すがら歩いていても、歩行者も自転車も見ない見ない。テレビのCMで

「県民の皆さん、歩きましょう」

と、歩行推進委員会が推進しているくらいである。

うちなー楽聖「実はCMで太ったおばさんにインタビューしているのがあって、“何故歩かないんですか?”って聞くと“だって、沖縄って歩ける道が無いじゃないですか”っていうのがあるんです」

どうやら、どこも車が通ってるという意味らしいのだが。歩道もちゃんとありますし、道も狭くないんですが…

うちなー楽聖「また太ったおじさんに聞いてるやつで、“あなたの会社内での移動手段は何ですか?”というのもあります」

階段を使わず一階でもエレベーターを使うことへの警鐘らしいのですが、そもそも質問自体がゴイスです。

うちなー楽聖「一番凄いのは、やはり太ったおじさんが野球の試合で、ヒットを打った後に、スクーターに乗って一塁まで行くというのがあります」

たけ「………」

そこまで強力に歩かない現実があるのなら、CM見た人で「その手があったか!」と納得している者もいる可能性もあるぞ。

じゃあ沖縄の人たち、そんだけ歩かないと足腰弱るやんけなんて思うが、みんなで集まって泡盛飲んだ夜は、三線引きながら皆で踊っている。彼らからすると

「なんくるないさー、それよりあんた、なんでずっと座りっぱなしで飲んでるさー?」

となるのかも。でも居酒屋で、トイレに行くときスクーターに乗ってたりして……


沖縄県芸、レッスン。

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2016年07月13日

木の精度


沖縄へ来てレッスンをしながら、昨日、一昨日書いた「ムラ」、「木と森」という考察はセットになるということ、そしてその重要性を感じています。


私たちがトレーニングをしたり曲を仕上げていくというのは、基本「ムラを無くしていく」という行為だと思います。

音域やスピード、音型によってできたりできなかったりは駄目ですし、曲も問題なく吹ける部分と出来ない部分があるわけにはいかない。そして練習をする意味としては、純然とこのムラこそがあるからということになる。

出来ないことがあるのを放置したり、「まだ練習の途中です」といったパフォーマンスになるとしたら、それは

「全ての木を見つめておれず、森をざっくり見ている」

ということにもなる。なぜなら、出来ない部分というのは一本ないしは数本の木という「小さな森」であり、それを完璧な森にするためには、結局一本の木の精度を上げ、高まった木を並べることができなければならないから。


初見から楽譜を見ていく時、やはり最初から全ての木の精度を意識が見つめることは大事だと思います。一本一本の木は散らかってしまっているなんとなくの森を繰り返し再現してからだと、そんな森が身体と意識に染み、それに満足し、場合によっては安住してしまう可能性もある。

そういう意味で、当然木を見て森を見ずは駄目だが、一本の木を丁寧に見つめることができる感性、取り組みこそが最も必要。そしてきちんとその木を並べ、森の起伏、形状、美しさまでに取り組めなくてはならない。

楽聖たちの問題、自分の問題の大半は、ムラがあるということであり、その原因は

「木を見つめる精度、そのムラ」

だと言えよう。


沖縄県芸、レッスン。

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2016年07月12日

木と森


「木を見て森を見ず」

レッスン中に生徒に投げる。

「音を見て音楽を見ず」という意味。一音だけ見つめて、全体のフレーズ、歌、音楽の全体像が見えないのは良くないよ、と。

ただ、「今のよかったね」となったのは 「全体をわーっと歌うのではなく、一音をしっかり見つめ、意識しながら進みました」というものだった。つまり「木を見て森を見ず」は駄目だが、

「森だけしか見ない」

は、やはり駄目だということ。クオリティは望めなくなる。

演奏の場合は、フレーズや音楽の全体像が「目に見える」のは二次元として存在している楽譜のみ。音としての本物の音楽は、目で見ることはできない。

目ではなく意識がみつめるのだが、時間の産物なので、「一音を見つめたら留まるることなく次の一音」てな感じになる。

木でイメージするなら、自分の目の前から前方向一直線にずっと一本づつだけ生えており、目の前の木をきちんと見つめたら、その向こうの一本が見えるてな感じか。最後までいったら、一本づつだけ一直線に生えた森だったみたいな。


「森の存在を意識しながら、木一本づつをしっかり見つめ続ける」


ですかね。


川越へ。ジパング。

posted by take at 23:20| 活動報告