2016年07月26日

没頭力とスイッチ


「集中できることこそが続けられる」

ある時、こう気がつきました。いったん始めると、没頭して時の流れを忘れる。一区切りついて我に返った時、「こんなに経っていたのか」と。携わっている時の感覚は、とても短く感じる。きっと楽しいのだろうし、自分で「先のステップへ行きたい」と、変化を求めていること。

僕にとってはいくつもある。N響、ジパングはじめアンサンブルもそうだし、東邦や沖縄のレッスン、合宿も。沖縄の三日間なんて、驚くほど速く終わる。ブロカートだってそう。

「長いなあ、早く時間経たないかなあ」というのはない。結果、それらをセレクトし、変化と充実が宿るよう考え、そこにいる人たちと楽しく仲良くなれるよう努力していく。


逆に言うと、集中できないことは続かないし、続けられないことを選んでしまうと、時間は長く感じられしんどくなるとなる。

集中できるかどうか、つまり自分との相性の現実は、どうやっても自分の中にしかない。他人が「集中しろ」ったって無理だ。

実は「こんなに楽しいことなんだから、もっと集中して」というのも無理難題。

集中力は自然にわきあがる力なんだから、本人にだってわからないし、コントロールはきかない。



大学生は、目の色変わったように本気になり、向き合いだす、いわゆる「スイッチが入る」というタイミングが様々だ。平均的には、三年の後半から四年にかけて、もしくは四年になってからという人も多く、「もっと早く入んないかなあ」と思ったりするが、これまた仕方ない。

「先生はいつだったんですか?」

と質問された。正直、記憶にないので、大学に入るより前、受験の時だと思う、と答えた。


家人とその話をしていたら

「受験じゃなくて、中学で始めた時からスイッチ入ってたのよ」

と言われた。「なんでそう思うの?」と聞くと「なんとなく」と返ってきた。

本当はどうだかわからないが、他のことはほどほどに(ほったらかして)、トロンボーンと音楽に没頭してきた人生であることには間違いない。


彼らが、実は素晴らしい集中力に心も身体も奪われていることを、切に願う。

なぜなら、これこそ僕の勝手だが、続けて、上手くなり、トロンボーンでもって幸せになってほしいから。

本当にただの勝手なのですが、僕は他の幸せを知らないくらいこれに集中してきてしまったから、これしか知らないのです。


休日。

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2016年07月25日

精査


練習には、とにかく反復するパターンと、頭を使い(何かしら工夫をし)できるようになっていく二種類があり、私たちの人生にはこの両方が必要。これは確かなことです。

「習うより慣れろ」なんて言葉もあり、とにかく反復し身体に染み込ませていき、自動的に出来ないことを克服してきたことは、今の僕の音楽や技術の、それなりのパーセンテージ占めているのだと思う。

それはきっと「あーだこーだ」と理屈を考えたり語ったりしても表現不可能なプロセスであり、回数、上から塗り重ねたことで、意識とは別に、まさに身体が熟成させ克服に至ったことなのだろう。

もちろん意識にも影響はある。回数試すことは、細かい異なるパターンを数々経験値として持つことで、確固たる安心からの安定に繋がる。

これら「反復練習を讃える」ことをしてなお、考えることの重要性に勝ることはない気がする。


反復練習は「努力」とも表現しやすい。ある生徒に、イチロー選手の印象を聞いたところ、まず

「努力の人」

というコメントが聞けた。じゃあ、イチローほどの成果が残せない選手は、皆イチローより努力が足りないのだろうか?

そうではないであろうことは、容易に想像がつく。きっと、時間も内容もマックス努力しているが、イチローほど野球マスターになれてない選手は山のようにいるだろう。それは何?身体?才能?

僕はイチローは野球マスター、つまり野球を凄く「知っている人」に見える。

打ち方を知っている。守り方を、走り方を、他のどの選手よりも知っている。知っているから打てる、知っているから守れる、知っているから走れる。

それはイチローが、当然反復練習をしながら同時に野球の技術、打つことや守ることや走ることと、身体やメンタルの理想を

『精査』

してきたからにほかならない。

精査とは「詳しく調べること」という意味。

トロンボーンや自分を精密に調査する。自分の演奏を精密に査定する。そんな資質は実は常時必要であり、その上での反復練習こそが私たちの時間を有意義な変化へと繋げる。

両方必要だ。精査ばかりして、理屈と口ばかり優秀になっても、トロンボーンマスターには決してなれない。

ただ精密に調査、精密に査定できない人は、実はもっと吹けない人であることも真実だと思う。


川越へ。

posted by take at 22:07| 活動報告

2016年07月24日

きしめん讃歌


今朝、名古屋できしめんを食べたら凄く美味しく感じられ、幸福な朝食タイムとなった。

一番のポイントは、表面の舌触り。

トゥルントゥルン!

が口に入った瞬間の「やわツヤなめらか」が、かなりの快感。

僕は稲庭や氷見うどんも凄く好きで、やはりその感覚に近いが、きしめんは表面積が広いため、楽しみも大きく感じられた。

定番相方のかつおぶしも、汁を吸ってしんなりし麺にからむが、そのざらざら感が、余計トゥルントゥルンを引き立たせている気がする。

若いころは、うどんと比べでけなしてたので興味なく、年々実力通り好きになっていき、今日はもうかなりのファンになった感じ。

僕も味覚が変化しているのだろうが、きしめん自体もどんどん美味しくなっているのではないだろうか。

今朝は専門店だったので、決してスタンドのように安価ではなかったが、値段に見合う上手さだった。

またひとつ、旅の目的がストロングになった気がする。


N響、四日市公演。

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2016年07月23日

赤裸々


今日は、ネガティブな話を書きます。すみません、好きではない方は読まないでください。m(__)m


大学、高校で教えていると、昨今の若者たちの心の闇とどうしても向き合わざるを得ません。幸い今、東邦沖縄共に僕のクラスにはいないのですが、周りには本当に多いのです。不登校、退学、鬱、レッスン中の涙、更には号泣、とにかく深く悩んでいて……

この心の病、なにがそうさせているのか、日本全国の教育現場で様々話し合われていることでしょう。僕もあまりのことに、周りと語り合う機会も増えています。

やはり世相は大きいだろうとの意見をもらいました。

どんなに時代が変わっても、人間としての本質、若者としての本質は変わらないはずなので、結果に違いを感じるとすれば、環境や習慣、教育の違いなのでしょう。

私たちが10代、1970年から80年代、昭和でいうと50年から60年のあの頃、もちろん私たちも同じように多感だったわけで、悩んではいました。ただあの頃はあの頃で、特徴ある独特な時代だった。

高度経済成長は、昇っていくように変わる日本をはっきりと実感させたし、問題提議や議論は今と変わらず激しくなされていたが、同時に、世界の中での日本の経済や教育の「勝利テイスト」が、私たち国民に目に見えない夢や希望を生んでいた。

「これから先も、私たちの国、生活はどんどん良くなるのだろう」

みたいな。

バブルの末期に社会に出て、その後、泡ははじけてしまって暗雲立ち込めても、実は20代半ばまで「上昇気分」で育った私たちの世代は、どこか能天気な部分がある。「いつか、なんとかなるっしょ!」みたいな。多くの同世代がそう感じており、よくそんな話もする。


方や現代。

テロ、覚醒剤、震災、原発、年金、異常気象、都知事・号泣議員はじめ、戦争を予感させられる政治不信……日本だけでなく、世界を覆いつつある先に対する不安。

若者たちは逃げ込むようにゲームとネットに興じる。進路や生き方に関してネガティブなことや、だからこうしなければなんてことに対して、妙に現実的だったりする。



そのネットなのですが、明らかに僕らが若いころ見なくてすんだものを、現代の若者たちは見てしまうことになっている。それは

赤裸々なネガティブ

たとえば、今朝Facebookを覗くと、僕が見た範囲の半分以上が、ポケモンGO利用に対する問題提議、都知事選候補者への誹謗中傷、ミュンヘン銃撃事件、何かしらの文句、で溢れていた。

僕は、基本Facebookは話題のテイストは自由だと思うし議論もありだと思っていますが、ただ、10代はじめ若者たちもこれを見ることになるという現実があることは考えてしまう。

発信の自由の方が、現実的影響力を凌駕している印象。

ネガティブな話題は、問題提議的意味合いを感じると共に、場合によっては個人のストレス発散に利用されているイメージも。ツイートの言葉も、あまりに赤裸々なものも多い。書き込みで賛同したり反対したりする際に書かれる罵倒や攻撃は、読む側が驚愕するほど鋭利だったりする。「本人目の前なら、絶対使わないだろう言葉」は、凶器の狂気のようにうつることも。

僕も大学生や数人の高校生とは繋がっていたりする。彼らも少なからず、大人のやり取りを見ることになる。もちろん同世代とが多いだろうが、それでも大人の本音のようなものは、見る機会も多いだろう。

更にTwitterやlineになると、友達たちの「裏の顔」とも言うべき言葉の数々を見てしまい、素直にものを考えたり、信じたりできなくなる。

彼らを取り囲み包んでいる世相も、身近に目の当たりにするネット上も、暗い言葉たちが溢れており、自分の当時を忘れてしまった私たち大人が思う以上に、

思考というより吸収

が多い世代には許容量を超えており、本来あるべき、希望や明るさ、シンプルさが明らかに失われている。

このことは、大人たちの気づかないところで、子供たちを深く悩み苦しませている、大きすぎる原因ではないだろうか。我々が現代で10代だったとしたら、明らかにあのころの自分とは違う閉塞感と共にあるだろうし、今とは全く違う50歳になる可能性は高い。


こんなブログを毎日書いている僕には言う資格はありませんが、大人たちは赤裸々になりすぎているかもしれません。

10代までは、もちろん反面教師が効果的に人を育てることもあるでしょうが、だがしかし、本来は大人が模範になり子供がまんま吸収することが大事。それを、複雑に選別したり考察したりしながら、ネガティブに打ち勝ち、明るく元気に生きていくのは、私たちが思っている以上に大人になってからなのではないでしょうか。


レッスン。N響、三河安城公演。

posted by take at 20:12| 活動報告

2016年07月22日

妄想GO


チョー時事ネタになるのですが、「ポケモンGO」についてガラケーで書いてみます。

最初にニュースで見た時、コロプラ的にあちこちいけてアイテムためるのが楽しいんだろうなあとだけ感じた。

その後よく妄想してみたら、実社会をつかって冒険アドベンチャーの主人公になれることが凄いのかもしれないと。(とにかくやってないのでわからんが)


これは凄いことになりそうです。


実際テレビや映画、ゲームはどんどんリアルになり、3Dが進化したら、いつか360°飛び出してくんのかなあ、どこまで行くのだろうと妄想っていた。

しかし、そんな現実空間こじんまりより、実社会空間の方にバーチャルを融合させるなら、そりゃスケールが違いすぎる。

そのうち、ドラクエGOやモンスターハンターGOなんかが出てきちゃったら、町中、山中、森中、海の上中勇者だらけになるかもしれない。みんな専用の剣をそこらじゅうで振り回し始めて……

ただやはり、現代社会そのものはそのバージョンで設定されておらず、それどころか、「公共の場ルール」はかなりあるわけで、勇者に夢中だと、当然あれこれハウリングは起こりそう。急に近くで剣を振り回されても大変だ。盾も常備してないし。

きっとエリアも限られていくのかもしれないが、そうなると確かにつまらなくなる方向にいくのでしょうね。

ドローンもだが、規制と魅力の闘いが続いて、どのあたりに落ち着くか。

ただ、ゴジラやウルトラマンに憧れていた子供のころ、実際に山の向こうから怪獣が現れたらなんて妄想していた。この憧れは、テレビや映画の二次元から一気に飛躍して、現実社会でこそ遊ぶ手立てへのものだった。ゴジラは現れなかったが、自分だけの基地を作り怪獣(友達)と戦った。

「テレビばっかり観てないで、外で遊びなさい!!」

だったわけで……


2020年には、リアル海中ゲーム「ファインディングドリーGO」、そして2025年、遂に人類は「スターウォーズGO」を実現させたのでした。


人間ちゃあは凄いわ。想像もつなかいことを、突然現実にしたりする。今回のポケモンGO、作り手はここまでを想像したかどうかはわからないが、「町にゴジラが現れたらなあ」って憧れが根っこだったことは確かだろう。実際思った以上に、みんな憧れていたわけですね。

これからどーなるかわからんが、とにかくえらいこっちゃ。


N響、演奏旅行練習。
そういや、最近はマリオカートも東京の街中、走りまわっとるしなあ。



posted by take at 18:40| 活動報告