2016年07月31日

永遠の大横綱


千代の富士が逝った。

全ての国民同様、あまりに突然で早すぎる別れに驚くと共に、悔しさすら滲む惜別である。

ただ愛され尊敬されたアスリートだったというだけでなく、彼こそ私たちにとって本物のヒーローだったからである。


「大きさだけが強さではない」と理解はできても、やはり「巨大」から感じる力は大きい。実際に比べると当然私たちよりは大きいが、しかし常人離れした身体ばかりの角界にて身近に感じられる体格の彼が、次から次へと力士たちを破っていくその爽快感たらなかった。

実際に柔軟性に長けていたのだろうが、柔よく剛を制すというイメージよりは、その筋肉には密度が感じられた。量ではなく内容といったその鍛え上げられた武器は、私たちのサウンドにも必要なものであり、多くのジャンルに携わる人たちの、本気で憧れるものであっただろう。

表情が崩れきらない精悍な顔立ちも、アスリートらしさの極みだった。闘争心がむき出しというよりは、怖いくらい秘めやかに顔に張り付いており、相対する力士はさぞ恐ろしかっただろう。

引退時のあの言葉。

「体力の限界、気力もなくなり……」

といって涙を滲ませたあのセリフは、強いヒーローの人間味溢れる心の声として、今でも私たちの、引き際に際する「潔い限られた言葉」として、バイブルのような位置にある。

現役時も引退後も、その発言を多く聞いた印象はなかったが、彼の師である北の富士さんの言葉により、改めて感じることがある。

「穏やかな表情だった。やっぱり千代の富士らしい顔。千代の富士は千代の富士ですよ。豪快だけど繊細。口は悪いけど腹はそんなに悪くない。涙もろいし…これだけの弟子は二度と出るとは思わなかった。一代年寄を辞退してまで九重部屋を継いでくれた素晴らしい弟子。ご苦労さんしかない」

また昨日、江川さんがテレビで紹介していたものが印象的だった。

「砂を噛むことが大事だと言ってました。これは私も常に思っていたこと。土を噛むようにと」

実は、バストロンボーンの門脇さんもずっと言っている

「噛むような音じゃないと」

とにかく手応えと質感を重要視し、その力に対抗すべく向かっていく姿勢の重要性が感じられる。

私たちの大横綱は、想定外に早く旅立ってしまった。しかし、明らかに特別に心にあり続けるヒーローとして、私たちに今なお夢を見させてくれる。

「また千代の富士のような、強い力士が見たい」



今日、N響のほっとコンサートで『ヒーローヒロイン大集合』とのタイトルで、スーパーマンやサンダーバードの音楽を演奏した。

ただはっきり言える。千代の富士こそが私たちの本物のヒーローである。

なぜなら、彼はあまりに常人離れした強さでありながら私たちと同じ人間であり、男女かかわらず、世代かかわらず心底惚れ込んでしまうような、全てにおいてかっこよさに溢れた存在だったからだ。


われらのヒーロー、ウルフ安らかに。


N響、ほっとコンサート。ブロカート。

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2016年07月30日

トマトとの距離


トマトジュースが特に嫌いだという人がいる。きっとそれなりにいる、

「トマトソースやケチャップは好きだが生のトマトはノーサンキュー」

という人の意見だろう。

実は、「トマトソースもケチャップも含めトマトファミリー全てが嫌いだ」という人に僕は出会ったことがない。しかし上記のような人は多い印象。そして、トマトジュースが嫌いという人も。


僕はですね、常時自分で買って積極的に飲むというほどではないのですが、喫茶店にトマトジュースあるとかなりの確率で頼みます。

薄いのは好きではなくドロッとしてるくらいがいい。そして、氷で薄まることはトマトジュースには天敵だと思うくらいなので、大抵

「氷なしで」

とスペシャルオーダーをする。実はこの手の人は結構多い。同じオーダーをする知り合いも、何人かいる。

そんなトマジューファンだが、嫌いだという人の気持ちが実はわからなくはない。納豆と一緒で、自分は好きだが嫌がる人のポイントも感じてしまうくらい、独特の個性を感じるからだ。

実はこのブログには、それなりの回数トマトが登場してきたようです(他人事)。僕にはそれだけ興味ある食べ物なのですが、不思議に思うものでもあります。

さっきも書いた、トマトソース味やケチャッピーなものの愛され方は大変にグローバルであるのに、生のトマトが苦手な人は多い。昨今は酸味も後退し、代わりにフルーツ並みに甘味の台頭激しいトマト業界だが、それでも嫌だという人も。

そして、トマトジュースのメジャーにならないさ加減。だって、トマトが液体になってるって言えば、ケチャップだってトマトソースだって同じなのに。

限りなくトマトそのものに近いからか?

でもトマジュー派の僕は、余分なもの入らない、加工してないのが好きなわけで。


トマトと人間の関係というのは、凄く複雑に感じる。世界を席巻する実力がありすぎるやつだし、アンチを作る力もある。個性は強く、それでも最近は、好きな野菜の一位を獲得し続けている。


今日熱い本番が終わった暑い川崎の空の下で、缶のトマジューを一気飲みした。飲みたかったから美味しかったが、でもやはり余分なものは入っていてほしくなかった。

「ほら、飲みやすいでしょ」

みたいなのが、人類との距離を近づけようと努力しているのはわかる。

わかるのだが、そうではないトマターもいるのだ。


N響、川崎公演。

posted by take at 22:55| 活動報告

2016年07月29日

けんえんのなか


『犬猿の仲』
【意味】 非常に仲が悪いことのたとえ。



「嫌煙の中」
今どきはですね、タバコ吸うのも一苦労でして。公園とかは、オリのような喫煙スペースに隔離されてオリます。オケも吸わない人ばかり。(僕も吸わない)


「県営の墓」
県がやってるんですね。


「田園っっっ長っ!」
指揮者が駄目なんでしょう、ベートーベンが長く感じるなんて


「敬遠7回」
凄いバッター


「名店最中」
老舗の和菓子屋こそ、機械化が進んでも残ります


「経営悪化」
栄枯盛衰


「永遠夜中」
眠らない恋


「千円の仲」
友達だと思ってたんですけどね、たった1,010円で大喧嘩からの絶交ですよ


「キューン&ホイヤーノーラッカー」
ダクに買いに行きましょう


「遅延の中野」
中央線よく停まる停まる


「チェーンの性(さが)」
雇われオーナーの苦悩


「キュゥ〜〜ンお腹」
空腹


「エィエィオー!よしゃ!!」
気合いを入れて


「ホッピーの中」
焼酎


「クララのばかっ!!」
ハイジ、一世一代の立身セリフ


N響練習。川越へ。

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2016年07月28日

ベクトル


何かと人が自分にしてくれることを望んだり、常日頃他人からの自分へのアプローチを望みがちな人。そういう

待ちがち

というメンタリティだと、豊かな音楽性や技術は宿らないのだろうなあと思いました。


寝ることや歯磨き、お風呂など毎日のルーティンを除いて、私たちの時間をいくつかに分けてみます。

〇テレビやゲームなど、外から自分へ一方的に楽しみや暇潰しが向いてやってくるようなことに興じる時間

〇人とコミュニケーションをとっている時間

〇考え事、妄想はじめ、自分自身の内面と相対しているような時間


他にも分け方あるでしょうが、まあこう分けましょう。

人により、それぞれどれが得意(時間計上しがち)、不得意なんかあるかもしれません。

自分と対話しない人なんていないと思いますが、この一番周りから何もこない時間、つまり自分の中から一方的に派生しかしない時間に、何が心に浮かびあがりがちなのか。

ネガティブになることが多い人は、最初に書いたような「待ちがち」な人なのではないでしょうか。

未来の時間に対して夢見がちで、妄想も激しいと、楽器と相対した時にも、イメージをクリエイティブしやすいのかもしれない。

実は音楽性とかセンスなんてものは、自分でイメージ妄想して引っ張りだしてこれるかどうか、が全てのような気がします。

ある人がレッスン中に 「君は、あまり音楽を知らないね」と言った。聞くこと含め経験値が浅い為、ストックがないからうまくいかないね、という意味かもしれない。

しかし経験値がなくても、最初から楽器からいい音がでて、あっという間に上手くなる人はいる。

また素晴らしい演奏を聞くのが大好きだが、演奏になると…という人も。

ベクトルの問題かもしれない。音大でも「とにかく教えて欲しがる」ような外から自分へのベクトルを待ちがちな人は、なかなか伸びない。

必要なのは逆で、自分の心の中から外に向いている人。待つよりは先にイメージ、先に妄想、先に計画、先に発信。そんな結果周りに待たせているくらいの人が、

聴衆に待ってもらえる人

になれるのではないでしょうか。


N響練習。川越にておさらい会。

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2016年07月27日

もがく


今日のレッスンで気づいたことがありました。

楽譜に書いてある音量を本気できちんと表現しようと、一生懸命演奏している姿は美しいのだと。

プロなら当たり前でそうは思わないでしょう。しかし勉強中の人は、少なからず

「今までは意識できてなかったことと向き合う」

というタイミングはそれなりにあるわけで、決して簡単ではないそのことと格闘する姿から感じる音楽というのは、明らかにありました。

そして彼は、プレイバックを聞いて全く思ったようにたどり着けてないことに傷つきへこんでいます。

これからはこのことと向き合い続け、もがいては実感を手にした気になり、しかしその勘違いから再び物足りなさにさいなまれ、またもがき……を続けるのでしょう。

それは一瞬気の毒に感じることではあるけど、結局そうやってもがいた人の演奏しか、人の心に届くメッセージを伝えることはできない。


楽譜というのはつくづく厄介なものだと思う。奥行きがありすぎて。

結局音にしてある作曲家に芽生えた感情を探しても、その本物の姿を理解するにはこの記号は簡略になりすぎている。正確に再現すると多少は見えてくるが、そこから更に人間である自らの内面で向き合い、擦り合わせるように探し求めないと本当は何だったのかはやはりわからない。

もがいた末わかった気になっても、自分を介して作曲家と真反対にいる聴衆の心にある感情的なひだを揺らせるとは限らない。彼らの気分は様々であり、また趣味もあるから。

それを凌駕して感動を呼び起こせるとしたら、結局


もがいた


という時間の積み重ねという事実のみであり、私たちはその底無し沼のような、しかし幸せを夢見ることができる未来に向かって、自ら心と身体を投げうっていくしかないのでしょう。

辛いと感じるかやり甲斐と感じるかは人それぞれ。

ただ、真摯な眼差しで楽譜を見つめる彼の眼、息を送る姿は、少なくとも僕の心を動かすものではあり、とても価値を感じた瞬間となったのです。


川越へ。

posted by take at 21:26| 活動報告