2016年06月13日

味わい深い性分


僕が学生の頃、今から30年くらい前を思い返す。

トロンボーン(に限らずだが)の、全体的な技術レベルは今より低かった。楽器が今のものより響きにくく、抵抗が強かったというのはあるが、それよりもトレーニングの仕方、目標サンプルとするレコードやCDが限られていたというのはある。中学生(今なら小学生)で楽器をスタートする時に聞く演奏、その技術の当たり前が違うというのもある。

ジョー・アレッシに言わせると「現代は、あの時代と違って“正しい吹き方”をする人が増えた」。これを裏返すと、間違った奏法が横行していたと言っていることになる。


ただあの時代だって、上手い人は上手かった。アービー・グリーンなんて、信じられないくらいいい音で、びっくりするくらい上手いが、彼のあのレコードたちは1950年代のもので、日本でいえば昭和20年代だ。想像でしかないが、日本との格差もイメージがわく。

レコードで聞いたアルミン・ロジンやロナルド・バロン、ベンゴロフスキーやヘルソンスキー、今でも来日する人ならスローカーやベッケ、皆さん現代の名手たちにひけをとらずバカうまである。

現代は底上げが実現し、プロアマ、日本世界のフィールド全てにおいて、みっともなく聞こえる人が減ったとでも言えるか。音色の不快述べ人数が減り、難易度の高いパッセージの音が並ぶ述べ人数が増えたという感じ。


ただ前述のプレイヤーたちはじめ、あの頃にあり現代では影をひそめたものがはっきりとある。


それは、味わい深い演奏


ロジンもバロンも、ベンゴロフスキーもヘルソンスキーも、スローカーもベッケも、現代の人たちの演奏よりずいぶん味わい深い。言わずもがな、もちろんアービーも。彼らしかやらないだろう、かなり特徴の際立った吹き方だ。

そしてはっきりしているのは、「もう一度聞いてみたい」と思わせられるのは、洗練されて、とにかく上手綺麗なものよりも、彼らのような演奏だということ。

夕べ飲みながら、飲み屋や料理屋でもそうだという話になった。チェーン店は平均点高く、ある意味安心感はあったりするが、また味わってみたいという店は、個人の個性が出てる店となる。

物を買うのでもそう。コンビニは物凄く便利で安心感が強いが、個人の趣味を更に求めにいこうとするとそれは結局手に入らず、より限られたジャンルや物を扱う店へと向かうことになる。

民主主義に愛情も相まり、研究や努力の甲斐もあって、万民に対する高品質の提供、並びに質の悪いものの排除は実現されつつある。(人としての質はさにあらず)

しかし本当に素直になれば、愛したい、手元に欲しいものは、実は味わい深いものではないだろうか。

演奏に関して言えば、ひとつはっきりしているのは、味わい深さというのは、習ったり外から注入したり真似たりするものではなく、

個人の性分

が生むものだろう。誰がなんと言おうがそう吹きたいし、そう吹いてしまう。

それは、グローバルを少なからず意識しながらも、どこかで周りの耳(目)を気にしない、気にしてもやっぱりそう吹いてしまう、そんなエゴ風な性分。

そして、そんな人たちは言うだろう。

「だって、これくらい、こうやって吹かないと、聞いてる人は喜ばないし感動しないでしょう?」


なんとかしてかくありたいし、そんな演奏家を育てたい。


N響ブラスアンサンブル、音楽鑑賞会本番。

posted by take at 19:16| 活動報告