2016年06月09日

自分じゃない、違う自分にならない


「示しはするが、極力教えないレッスン」

僕が目指しているもの。期待しているのは、教わるのではなく「自分で気付き、自分で自分を変える」ということだが、実は恐れていることもあってのスタンスです。

それは生徒を

「らしくない方向へ導いてしまう」

ということ。言葉というのは、実はその力を持っている。

生徒本人が、自分の意思で本来の自分の個性と違う人間になろうとする、そちらへ導いてしまう力がある。


音楽の趣向、表現の趣向、音の趣向、場合によっては技術の趣向までも、実は個人個人によって違う。この違いは尊重された上での質の高いパフォーマンス、説得力の高い演奏であるべきだ。

特に、教えを仰ぐ年長者が発するもっともらしい教え、アドバイスは、若き生徒を一気にその方向へあおる力となる。

それは知らなければ試さないが、アドバイス受けた以上なかなか無視しにくいもの。知った以上は試すもの。

言葉による断定的な指標は、特に悩める人間の価値観を支配したりする。


もちろん救える場合もあるだろう。ただ本当に正直に書けば、僕自身が過去言葉で投げたアドバイスだけで生徒の悩みが改善されたケースはとても少ない。実際は投げたものを受け止めながらも、本人の意識と判断で自分を変えていっているのが現実だ。

実は、丸のみ、鵜呑みにして違う方向へシフトして、新たな不具合に支配されてしまう人も多い。


だから、生徒が演奏し、僕も示し、比べてもらうことを願う。

嫌みでは全くなく

「君はそう演奏するんだ。僕はこうするよ」

そして、自分で比べたものの中から何かしら感じ変わっていく。自分自身の選んだことで結果自らを見失わないようになるために。というか自分らしくありながら、故に変わっていけるために。


ある人の文章に、強く共感しました。

「違う自分になろうとしてはいけない」

本当にそう思う。

そうなってしまうか、要領よく判断正しく選びながらになるのかも本人の能力といえばそうだが、下手に導かないように、言葉ではなく、出来る限り音が印象を生むように。

たとえ歩みがゆっくりに感じる人でも、自分自身で変えれれば、我を見失わず歩みを継続できるでしょうから。

そして、いよいよ最期は救いになるような最低限の言葉を発する、その言葉、タイミングがわかるような自分でありたい。


N響定期練習。金管アンサンブル練習。

posted by take at 22:14| 活動報告