2016年06月25日

ハムと友情


「女の友情はハムより薄い」

とあるツィートを見て、どかんどかんウケてしまいました。

実際に女の人同士の友情が厚いのか薄いのかは語りだすと大騒ぎになる。だからというわけでもなくてですが、そのコアな内容に関してではなく、ただ言葉の使い方にウケたわけですよ。

そもそもハムもいろいろあるじゃないか、な〜〜んて言い出したらこの名言は楽しめない。

これを、女性生徒軍団に投げてみたら

「先生、女の友情はオブラートより薄い“時が”あります」

と、あまりに深淵かつ衝撃的かつ笑劇的なコメントももらえた。しばらく突っ込んでいたが、深入りすると脱出不能からの大ケガしそうだったので、ある程度で切り上げました。かしこおぅぃぃ〜〜。

ただ、このツィートが流れていたテレビの議論、「女同士の友情について」だったのですが、生徒たちの言葉からも含め

「見返り」

というのは、ひとつのキーワードに感じた。

まあ男として、友情とか親友とかの内容を語ることはできるが、僕自身は普段強い友情や、親友という立場は欲していない。

周りにいる人は大切な人かそうでもない人であり、少なくとも大切な人からは見返りを求めないようにしたいと。いや、カッコつけてるわけではなくてですねぇ、まあ、理想ですね。年々そう思うのは確かです。

相手の反応が友情のバロメーターとなるとしたら、結果極めて居心地のよい会話と空間こそがそんな情だと感じて、それ自体は自分からなんとかして作りたいため、何が友情なのかわからなくなってくる。そもそも、そんな空間を作れない人とは、最初から、そしてずっと無理。友という情はまずもって派生しない。

友情は空気みたいなものかも。欲しがるものじゃなく、あったりするもの。しかも生まれたとしたら後になって「あれが友情だったのかなあ」なんて思い返すものかもしれません。


ツィートを楽しんでおきながら、やっぱりハムのラインナップを考えちゃいました。

ボンレスハム含め、ハムもいろんな厚さで頑張っているのに、素晴らしいツィートのせいで閑食においやられたじゃないか、美味しく食べてあげなければ可哀想だ、な〜んて。なんのこっちゃ。


ミュージックトゥモロー練習。ブロカート金管分奏。

posted by take at 21:09| 活動報告

2016年06月24日

どこがさらうのか


さらい方。

初見の時に一番大切にしたいのは、可能な限り楽譜に書かれてあることを漏らさず再現しようとすることでしょう。

もし凄く細かい音符で速い速度設定なら、最初からテンポで見るのは困難。しかし速いテンポ以外の項目、音程、リズム、アーティキュレイション、ゆっくりなテンポ等は、「まずはこれ読んで、次に……」 ではなく、出来得る限り同時に見て、少ない回数で見落しなく再現出来ることを目指した方がいい。「間違えている」音出しを繰り返すと、間違えている音符のための練習になってしまうから。

読めた実感は人それぞれタイミングが違うだろうが、本能がそれを感じてきたら徐々に楽譜そのものから離れていった方がいい。これは見ないようにするという意味ではなく、意識が自分のパフォーマンスをより魅力的なものになるようにクリエイトする側に転じていった方がいいという意味。

ある段階でそうなったら、いかに頭の中が理想へ向かっているかだ。理想というのは、その都度吹いてみて「違うな」と思ったら、どう違いどうなりたいのか、そのなりたい先にあるもの。

反復練習、ないしは工夫あるパターンの練習をすれば、気がつくと出来るようになっているでしょう。そうすれば、また新たな不満やより魅力的なものへの指標が浮かび上がれば、ある意味いつまででもさらい、いつまででも昇っていける。

よくないのは、反復すれば良くなることに委ねてしまうことだ。確かに反復さえすればできるようにこともある。しかし、「とにかく反復」というのは、たとえば技術的に困難な時のみにだけ使いたい。

頭が先導し、身体が的確な順番で動くように身に付いていくことこそ大事。

つまり、さらっているのは身体だと思いがちだが、実は頭の中こそがさらっているべきなのだと思う。


休日。
1700日目になりました。


posted by take at 20:07| 活動報告

2016年06月23日

絶対優先されるべき必要不可欠


管楽器を吹きながら、頭の中で階名で歌う人とそうじゃない人がいる。

僕はそうじゃない人。

階名人からすると 「じゃあ何歌ってんの?」となる。

う〜ん、ただ ♪ターーンタラタタター♪ かなあ、いや違うな、それすらわからないなんか言葉にならないもの。

ダビットだったら、階名人は ♪ミーーッシソミソシィーー♪、ないしはベー読みの方は ♪ファーーッドラファラドーー♪と、吹きながら頭の中で歌うのでしょうね(ベー読みツェー読み論争はまたいつか)。

僕は実態のない ♪んーーンんんんんんー♪ かなあ。逆に階名が歌えるのが不思議でしょうがない。神業に感じる。

あるプレイヤーと話していて、不思議に思ったので質問してみた。

「例えば、ラシドレミって音形があって、頭の中で♪ラシドレミ♪って歌っても、舌の発音がラシドレミにはならんよね、当たり前だけど」

「それはそうですね。考えてみたら不思議っちゃあ不思議ですが、♪ラシドレミ♪と歌いながら発音はタタタタタと」

そらそうだ。ただここにひとつ大きなポイントを感じます。

頭の中で音楽を明確に歌って、でも楽器で表現するときは楽器用に的確に身体が動く。ラシドレミと歌ったからラシドレミと発音してしまうなら、フォルムははっきりせず発音ムラだらけになってしまう。


そう、身体というのは楽器用に動く。


細かい楽器の操り方。トロンボーンなら舌、腕(指、掌、手首、肘、肩まで)、息、口の周りや中、腰等あらゆる部位の動きは、全て楽器のための、楽器バージョンの動かし方。

頭の中、心の中に沸き上がる音楽が、階名でもラララでもんんんでも、身体はきちんと楽器用に動く。つまり、その点ではイメージと身体は別々になることができる。

だからこそ、楽器の操り方(の理解は大事だが)よりも、タイミングや音程がきちんと頭の中で確固として沸き上がり、それが先導し身体が付いてくる、実際は同時のように感じるが、それこそが必要なことだし、必要な順番なのでしょう。

頭の中がはっきりしてない人ほど、それと身体が混在して意識を支配してしまい、全体が曖昧になる。

本当は思ってもないことを喋っている状態のようなものか。喋ること自体を優先して選び、整理つかないうちになんか格好を整えようと声にしてたら、わけわかんないこと言ってるみたいな。顔つきやしゃべり方、話の脈絡も不自然でコントロールきいていない可能性は高い。

演奏なら、自分の本音の音楽でないみたいなものか。吹くこと自体を優先して選び、整理つかないうちになんか格好を整えようと音にしてたら、わけわかんないこと吹いてるみたいな。音程もリズムも音量も、発音はじめ身体の使い方はコントロールきいていない可能性が高いとなる。


頭の中が階名であろうが何であろうが、身体は分離して的確に動くようだ。つまり沸き上がるべき必要不可欠なイメージは、明確なタイミング、明確な音程という意識であり、それこそが曖昧であるべきではない。

曖昧になってはいけないのは、身体ではなく頭だ。頭さえはっきりしていれば、何故だかよくわからないが身体は的確にはっきり動いてくれる。頭がはっきり定まってなければ、身体もしどろもどろにしか動かないし、右手と右足が同時に前へ出たりもするのだろう。

そういう意味で、楽譜のさらい方、順番というか流れというかとても大事。これについては、また明日書こうと思います。


N響定期。

posted by take at 11:31| 活動報告

2016年06月22日

音にも人にも耳を


私たち人間は、常に二面性と向き合う。ほとんど全ての事柄にふたつの真理があるように、演奏の目指し方にもある気がします。

細かく表現に着目すれば、そりゃ凄くたくさんの魅力的やり口はある。

しかし大きくわけると、

「今この瞬間で、歌を表現しきろうとするか」



「未来へ向かってひとつの歌を貫こうとするか」

かなと。違う言い方をすると

「常に今この瞬間で感じてもらおうとするか」

「先にある魅力のために奉仕する歌い方であるか」


人生そのものなら、あまり先のことにやきもきせず今を一生懸命生きることは大事だと思います。しかし演奏行為は、やる側としては、どう始まりどう展開しどう頂点を迎えどう完結するかは早い段階でわかっているわけで、未知の時間を歩んでいるわけではない。

今目の前の音符から魅力的なニュアンスを探し、見つけ、引き出してくることはとても大事なことだが、楽譜全体から見つけることはもっと価値あることだろう。驚き感心することはあれども、感動にはつながらない可能性が高いから。


実は指揮者にこそそれを望みたいが、ベテランになっても(若いならある程度仕方がない。人生の時間そのものを、まだそう生きているから)まだ瞬間的な印象ばかり追い求め、オーケストラに要求する人もいる。大抵オケは賑やかなだけで、本物のサウンドにはならないのだが、それでもそれなりのファンがいたりする。

これまた、聴衆にも多面性があるからだが、彼らが本当に感動しているのかどうかは疑問だ。コミュニケーション含め、その指揮者の生きざまが人の心の奥底へたどり着こうとしていないのだとしたら、結局時間を流れることが現実である音楽そのものが、琴線まではどうやってもたどり着かないであろうから。


聴衆という人間、その心、感性はそんなに簡単ではない。とにかく真摯に、楽譜と同じくらい探さなければならない。そういう意味で、練習室にこもりっきり、音楽に逃げ込み人を見つめないのは駄目だ。

人は常に私たちに言葉や態度を投げ掛けてくれている。音にも人にも、同じように耳を傾けなければならない。

それができなかった人には、そのうち誰もアドバイスもしなくなる。そんな人の音楽は、鍛練された印象はあっても、心から感動するには至らない。


N響定期。

posted by take at 11:58| 活動報告

2016年06月21日

ミッフィーも61歳


51歳になりました。

Facebookやメールでのたくさんのメッセージ、本当にありがとうございました。

計算してみると、ちょうど人生の半分N響に在籍したことになりました。東邦音大が16年、ジパングが17年、Nーcraftsもよんでんブラスから数えると18年、ブロカートはトレーナー時代からだと18年、そして沖縄が2年目。

私の人生の大半は、これらの仲間たち、そしてこのブログを読んでくださっている方々、Facebookで親しくしていただいている方々いらしてこその時間です。

そして何より、両親への感謝、兄弟への思いも強いのですが、上京以降ベルリン時代も含め、その時間のほとんどを一緒に歩いてくれている家人が彼女でいてくれたおかげだと思います。

これからも変わらず、というかパワーアップがヒートアップして、空回りからの周りの失笑と共に、音ある時間、音楽溢れまくる人生を送っていくつもりです。

これからも、どうぞよろしくお願いいたします。


N響定期練習。

posted by take at 17:41| 活動報告