2016年05月13日

パワー・オブ・アカデミックスタンダード


今回、マルタンとデュティーユ、ヒンデミットを並べてみて感じたことがあります。

今までは、バラバラにやっていた。学生時代は一曲だけ。リサイタルなんかでも、もう少し違うテンションのものとカップリングしていた。トロンボーンのためではない曲とか、歌曲や小品、名曲ならオリジナル性問わず積極的に並べてきた。

いかにもという作品たちを同時に、というのは初めてで。

どういかにもなのかというと、「長きにわたりスタンダードとして取り上げられ続けている音楽的評価の高いオリジナル作品」といういかにも。


ちなみに作曲年代、マルタンとヒンデミットはほぼ同じ1940、41年、デュティーユは1950年と近い。トロンボーンのソロが積極的に書かれ増え始めたころだろうか。

僕が大学に入った1984年頃でも主要のレパートリーだったし、その後曲が増えていくフィールド、皆がやらなくなった曲もある中で、今なおソリストたちの興味を惹き続けている。取り上げる若者も多い。


で、何を感じたかというと、これら音楽大学生からコンクールまで、高い難易度への指標と共にある作品たちには


「力があるなあ」


ということです。吹いていてパワーを感じる。少し硬質なエネルギーというか、力技というか。

心に響く名曲でも、パワーというよりは、情緒や柔らかさ、歌謡性を感じるものもある。

しかしこの三曲に関してアナリーゼをすると、作曲家が音のセレクトに理論、理屈を盛り込んでいるのは明らかであり、その技法にアカデミックさを感じれば感じるほど「なるほどね」と同時に

「よく書けてるなあ」

とつぶやいたりしていた。

実際演奏することになると、その作曲家の狙いをきちんと受け取り体現するには、しっかりと、冷静かつ気合いを入れて吹き込まなければならず、

「歌やいい」

と、気持ちと勢いに委ねればなんとか表現になるというわけではないことがわかる。

その格闘感が、パワーとなって音に内在した後、目に見えないエネルギーとして空間に現れてくるように感じるのです。

練習してみて、ピアノと合わせて、演奏してみて感じるものだが、根本としては楽譜に既に注入されているのでしょう。


作曲家の取り組み、そのいわゆる「渾身」というものが、時空を超えて、現代の私たちの目の前に現れてくるのかもしれない。


そしてさらに数百年遡るが、バッハのシャコンヌからも「楽ではないなにか」がはっきりと感じとれる。


バッハ自身のパワーなのだろう。


そんな力をも感じていただく夜になりそう。とにかくやることに決めた僕は、打ち破れ、負けてしまわないように、最期までステージに立っていなくてはならない。


野方にてリサイタル。

posted by take at 12:53| 活動報告