2016年04月09日

美しさとキツさのあいだ


音であれ女性であれ、とにかく美しいというのは魅力的であり価値がある。

「ただただ美しい」なんて言い方をすると、もうとにもかくにもとても美しくて、相対しているだけで溜め息がもれ、その美しさから無上の幸せをいただきなんてことでしょうから、やはり大変な価値を感じますね。

ただ……

「ただ美しいだけ」

と“ただ”が一回だけとなると、一気に話のベクトルが逆方向に向く。価値がないわけではないけれど、あるかないかと言われれば、「ない方に近い」とすら言っているように感じる。

人間はわかりやすいかも。

「彼女はただ美人なだけ(見た目が綺麗なだけ)」

ということは、話したり付き合ったりすると、内面の魅力を感じないということですね。

話がつまらない。バカっぽい。自己中である。攻撃的である。とにかく周りが暗くなってしまう。哲学が無い。幼稚ィ。情が薄い。自立心がない。無表情である。思いやりもない。無関心……あたりですか。

見た目が美しいだけで、注目されたり話題になったり、人がとりあえずよってきたりはするでしょうが。



音はどうなんでしょう。

どんどん楽にいい音(美しい音)が出るように、楽器は改良されていっている。その事に価値が無いとはとても言えない。楽器を買い替えていってる僕も、その恩恵を受けているし、「昔の吹きにくい楽器の方が良かった」と言うと、まさしく“年寄りの回顧的ノスタルジック現代批判”でしかないでしょうから。


「なんで、全ての楽器が楽な方へいってるんですかね」

と聞かれた。

「トロンボーンで言えば、やっぱりスタンダードの中にある“吹きにくい部分”を取り除き、しかも良く響くポイントというのが、研究の結果見つかっていってるということじゃない?」

ただ冷静に考察すると、トロンボーンを吹くというのは、楽器がどのようになっても、

“凄く楽な行為”

という印象にはならない。金管はみんなそうだろう。リコーダーよりは身体に易しくなければ優しくもない。気持ちいいとか楽しいとか、快感とアドレナリンを対価にして、身体を酷使して吹くことには変わりないと思います。

ということは、

『ある程度身体にキツくないと、トロンボーンのいい音ではない』

ということになる。

楽によく響くという方向は、同時に“誰が吹いても良い音が出る”という、極めて民主的な方向へも向かっている。本当に上手い人が吹かないといい音でない、という設定はどうなんでしょうか?そのかわり、名手が吹くと信じられないくらいいい音がするみたいな。


きっとどこかに“楽とキツい”という理想的なバランスがあり、それは

「ただ美しいだけ」

とはいかないような何かしらの価値を優先する、賢明なボーダー設定がある気がします。


人間の内面に求めるようなもの。演奏、楽器においても手にしなければならないその価値観。

もし演奏や楽器、そして時代が、無自覚に失っているものがあり、表立ってこないが

「ただ楽に美しく響いているだけ」

という感性の不満が聴衆の中に潜在的にあったとしたら、私たちは一体何を失っているのでしょうか。


川越へ。

posted by take at 20:37| 活動報告