2016年04月10日

酔っぱ雷


「俺の酒が飲めんのか」

は、日本オリジナルではなく、世界のあちこちにある(あった)と聞いたことがある。

ニッポンでは、一気含め飲酒の強要が悪者になって久しい。もちろんその事を嘆いているわけではありません。気持ちにも身体にも副作用の多い行為ですし、酒席の楽しみ方としてはレベルの低い幼稚なやり方。実弾使わず、話弾で遊ぶのが大人ですから。

ただ思い起こしてみれば、過去蔓延していた愚行、面白い副作用もあった。そういうパターンも中にはあったということです。必ずそうだったというわけじゃないし、決して行為を肯定しようとしているのではありません。


先輩が後輩に飲ます。有無を言わさずですから、飲まねばならぬ。すると中には強いのもいて、あるヨッパレベルを超えた辺りから、テーブルバーン!!てな雰囲気で、

「先輩、聞いてくださいよ!!!」

と、強気の姿勢に豹変する。ウヒョウ!!

素面な昼間なら絶対出ない言葉

「先輩は間違ってると思います!!」

から

「音楽っていうのわあ!!」

「僕はこういう考えで頑張ってるのに、周りの奴らはですねぇ!!」

等々熱き主張が始まり、飲ませた方も、一瞬たじろいた後面白がってるうちはいいのたが、ちょいと面倒くさくなり、

「まあ、わかったわかった」

とおさめにかかっても、もうヨッパっプーなので口撃の手は弛まず、そもそも飲ませたのは自分なので受け止めないわけにもいかず……なんて光景。

翌日になると、また後輩は「昨晩の勢いいずこへ?」といわんばかりのおとなしさ。


そして、あの頃無くて今あるものも。

後輩や生徒、目上の人のお酒がなくなりかけると「次何飲みますか?」とメニューと共に気配り。サラダ他大皿がくると、サッと取り分け始め気配り。実はあの頃はなかった。酒は自分のペースで注文してたし、大皿は、まず先輩や先生が自分で取ってから、他の人へ回していた。

後輩たちは、気遣うも何も酔っぱらわせられていたので、そもそも気が回る状態ではなく、酒が回り天井が回っていた。


いずれにせよ、僕自身は周り構わず喋り倒し気味のくせに、そんなんでも若手や生徒がよく喋っている方が好きだ。みんなの酒席であり、みんなが楽しい方がかけ算が激しくなり、興奮からの昇りテンション、とにかく楽しくなっちゃうから。

そう書いときながら、我が話はちゃんと聞いてもらいたいという事故酎でありまして………


ジークフリート楽日。

posted by take at 15:39| 活動報告

2016年04月09日

美しさとキツさのあいだ


音であれ女性であれ、とにかく美しいというのは魅力的であり価値がある。

「ただただ美しい」なんて言い方をすると、もうとにもかくにもとても美しくて、相対しているだけで溜め息がもれ、その美しさから無上の幸せをいただきなんてことでしょうから、やはり大変な価値を感じますね。

ただ……

「ただ美しいだけ」

と“ただ”が一回だけとなると、一気に話のベクトルが逆方向に向く。価値がないわけではないけれど、あるかないかと言われれば、「ない方に近い」とすら言っているように感じる。

人間はわかりやすいかも。

「彼女はただ美人なだけ(見た目が綺麗なだけ)」

ということは、話したり付き合ったりすると、内面の魅力を感じないということですね。

話がつまらない。バカっぽい。自己中である。攻撃的である。とにかく周りが暗くなってしまう。哲学が無い。幼稚ィ。情が薄い。自立心がない。無表情である。思いやりもない。無関心……あたりですか。

見た目が美しいだけで、注目されたり話題になったり、人がとりあえずよってきたりはするでしょうが。



音はどうなんでしょう。

どんどん楽にいい音(美しい音)が出るように、楽器は改良されていっている。その事に価値が無いとはとても言えない。楽器を買い替えていってる僕も、その恩恵を受けているし、「昔の吹きにくい楽器の方が良かった」と言うと、まさしく“年寄りの回顧的ノスタルジック現代批判”でしかないでしょうから。


「なんで、全ての楽器が楽な方へいってるんですかね」

と聞かれた。

「トロンボーンで言えば、やっぱりスタンダードの中にある“吹きにくい部分”を取り除き、しかも良く響くポイントというのが、研究の結果見つかっていってるということじゃない?」

ただ冷静に考察すると、トロンボーンを吹くというのは、楽器がどのようになっても、

“凄く楽な行為”

という印象にはならない。金管はみんなそうだろう。リコーダーよりは身体に易しくなければ優しくもない。気持ちいいとか楽しいとか、快感とアドレナリンを対価にして、身体を酷使して吹くことには変わりないと思います。

ということは、

『ある程度身体にキツくないと、トロンボーンのいい音ではない』

ということになる。

楽によく響くという方向は、同時に“誰が吹いても良い音が出る”という、極めて民主的な方向へも向かっている。本当に上手い人が吹かないといい音でない、という設定はどうなんでしょうか?そのかわり、名手が吹くと信じられないくらいいい音がするみたいな。


きっとどこかに“楽とキツい”という理想的なバランスがあり、それは

「ただ美しいだけ」

とはいかないような何かしらの価値を優先する、賢明なボーダー設定がある気がします。


人間の内面に求めるようなもの。演奏、楽器においても手にしなければならないその価値観。

もし演奏や楽器、そして時代が、無自覚に失っているものがあり、表立ってこないが

「ただ楽に美しく響いているだけ」

という感性の不満が聴衆の中に潜在的にあったとしたら、私たちは一体何を失っているのでしょうか。


川越へ。

posted by take at 20:37| 活動報告

2016年04月08日

な〜みだぁのか〜ずだぁけぇつ〜よくぅなれるよぉ〜♪


最近のトマトも金柑も、昔より甘くなったと言う話からスタート。

「子供の頃、近所の八百屋に気のいいおっちゃんとおばちゃんがいまして、随分仲良くなったんですよ」

今はたいそう話の上手い楽器屋の店員なので、子供時代八百屋とも仲良くなったのでしょう。

「で、なんだか美味しい野菜の見分けかたというのを詳しく教えてくれて」

目の前で切って食べさせたりしながらの説明だったそうで、その見分け方にも興味をひいたが、それ以上に八百屋はなぜそこまで細かく彼に教えたのか。

たけ「君を後継ぎにしたかったんじゃないか?」

結果彼は金柑を売らず金管を売っているのだが、まあそれはどうでもいい。


「まずは見た目がキレイなやつじゃなく、傷ついてるくらいのから選べと」

たけ「そりゃ、見た目じゃないのはわかるけど、虫が喰ってるくらいじゃなく傷ついてるって……」

「それは、やはり長く熟してるってことで、いろんなものから耐え抜いてきたということらしいんです。傷がつく前のキレイなうちに収穫したんじゃない、ということのようです」

たけ「なるほど」

「まあ、全てがそうじゃないでしょうが、傷が多い程中身は熟してたくましくなってると」

甘く育つよりも、たくさん傷ついた方が、中身は雨風困難に負けないたくましさをもち、味わい深く熟している。

たけ「人間と一緒じゃん」

以上。


選定。

posted by take at 18:21| 活動報告

2016年04月07日

自分と長所 自分と短所 その3


こういうこともありました。

あるユーフォの生徒。吹き終わってから「良かったところと良くなかったところ」を聞くと、「音が良くなく、音程とリズムはまあまあ良かった」と答えました。これはそのまま僕の印象と真逆だった。

きっと彼女は音にはこだわりがあり、日々意識と神経を使っているので「まだ気に入らない」。しかしそこにこそ良さと可能性が見え、普段こだわってない音程とリズムには自己評価自体が甘くなり。というか、みつめようとしてなかったか。

日本人の場合、そういう意味で 「自分が思う長所短所が、逆になってるかもしれない」 という意見が聞けました。


本当は自己評価と周りからの客観評価が一致した長短だと望ましいが、そうでなかったとしても、自分の長所だと思う部分はより成長させていくスタンスは大事ですね。


教育の現場は、オールマイティーの方に軸足があり、短所や難所を見つめ改善していくことを要求するムードが強い。しかし、長所あっての短所だとしたら、長所はオールマイティーな合格点より更に飛び抜けている方が良い気がします。

これは僕の主観ですが、プライドとか長所というのは育てていくもので、それは周りに委ねるのではなく、自分で育んでいかなければならないのだと思います。

「生徒の演奏、短所は見つけやすいが長所は見つけにくい。人によりますが」

また

「自分の長所は、他人に言われて初めて気付くことが多い」

という意見も聞いた。

もし楽聖たちに、自らの長所を意識して伸びていってもらいたいなら、早い段階で教師である自分がそれを指摘し、認識してもらう必要があるのだろう。


長所短所というより、「得意なこと苦手なこと」と言われた方が、分かりやすいという意見も。


いずれにせよ、人が伸びていくためには、自分の短所を見つめる眼と、長所を利用する自意識の両方が不可欠だと思います。


ジークフリート、ようやく本番。

posted by take at 17:37| 活動報告

2016年04月06日

自分と長所 自分と短所 その2


以前レッスンでよく、一回吹いてもらった後、

「良かった部分と良くなかった部分を言ってごらん」

と投げていた。すると生徒は100%良くなかった部分からいい始め、しかもためらいなくいくつかの項目を続けて言う。で、良かった部分はというと「無い」とか、考えた末無理やり絞りだしている感じ。日本人はそうなのだと毎回思っていた。

自分で駄目なところはわかっている、というアピールなのかな、と思ったりした。自分がやりたいことを目一杯やろうとして叶わなかったのならこれまたわかるのですが、しかしそういう風に感じられる人はほとんどいなかった。

本当に良かったところは無かったのか? そんなことはない。何をもってして良かったと感じるかのボーダーはそれぞれであり、低く設定したくない気持ちはもちろんわかる。

ただ、そもそもそれ以前に、自分の良いところを見つめようとしていないようにも見えたのです。


これはそっくりそのまま、「自分の長所を見つめない」ということと同義である。

自分の長所を意識しなかったとして、本当に自分らしいアピールというのはできるものだろうか?


もし、総じて技術が向上した日本人が、未だやはり没個性と評価される部分があるとすれば、この

「自分の長所を理解したり意識したりする力が弱い。そもそもしようとしていない」

ことに原因がないだろうか。一億三千万総気にしぃの日本人だから、自己愛的に「俺ってここが素晴らしいって思ってる」と思われるのは具合が悪いのでしょう。それよりは、「自分はここの具合が悪いと分かっています」と、卑下した表現の方が、自分の評価として安全に感じがちだ。


実は人間性の話だと、自分を高めに評価していたりする。ほとんどの人が、対外的実像より1.5倍くらいイケてる自分だと思っていると聞いたことがあります。そう思わないとやってけないのかもしれないが、そのおかげで、積極的にうまくコミュニケーションが出来ている場面は山のようにある。つまり、自分を潜在的に「良い」と思うことでアピールができ、結果自分の長所も育てていけるパターン。


演奏はどうだろうか?

駄目なところ、つまり短所を正確に判断し改善していくことはもちろんやらなければならないことでしょう。

しかし同時に、自分の長所を更に魅力的なものになるように育てていくというのは、実はとても大切なことだと思います。もしかしたら、そのアプローチこそが様々な短所を改善していく力になるかもしれない。

その為には、まずは自分の長所をある程度正確に理解することが大事。実は、勘違いにならないように正確にというのは、けっこう難しかったりする。そのことに関してはまた明日書きます。


ひとつ言えることは、名手と言われる人は、もれなく長所が目立っているということ。現代らしくオールマイティーさはあったりするが、それでも明らかに目立っている。


川越へ。

posted by take at 19:19| 活動報告