2016年03月16日

認めるべき人格


以前『レス・エイジレス』というタイトルで、この場に書いたことがある。

「加齢含め年齢は、人を計るのには関係ない。元気な人は若い時からずっと元気。世の中のイメージを越えていつまでも元気だったりするし、元気ない人は実は若い時からずっとない」

という意味のこと。世間で言う「〇〇歳になったら」という日本的一般論は実はほとんど意味がなく、体力的にも精神的にも個人差の方が真実を示しており、その差は、よく語られるイメージ以上であると言いたかった。


今日の思い。一生学び、一生成長というのを理解した上で、それでも未成年と成人で線をひくところからスタートしたい。そして成人限定での話。


韓国ほどではないにせよ、日本も年長者を敬うという価値観は純然とある。若者は、人生経験の長さには何をおいても一目おき、敬意を払い、教えを請う姿勢であるべきだ、敬語も使いましょう、みたいな。

ただ、身体と精神の話だけではなく、

『人として敬われるべき人物か軽蔑されるべき人物か』

も、実は年齢は全く関係ない。この人格の質に価値を求める方が、身体や精神より理解しやすいですね。

それでも一般社会においては、人格関係なく年長者にも上司にも敬語を使い、敬う姿勢を見せねばならず、若者に対し年長者があまりに下手でへつらう態度になると違和感にうつる。

まあ、「それくらいの表裏も使えんのか」という、社会人としての力量を問うていることだと思うし、それはそれで良いと思うのですが。僕みたいなちゃらんぽらんでも、このシステムのおかげで年々楽になっている部分はある。みんな話を聞いてくれるし、同意してくれることも増えた。


ただそのことで、若者を一緒くたに見てしまうべきではないと、最近強く感じ始めている。年長から若者を見た場合の話。

学生もそうだが、同い年、同級生というのは、一番厳しく人格を判断していたりする。それが、ひとつでも年が上になると鈍ってくるし、ひとつでも下になるとやはり鈍る。

しかし、若いときから人格が優れている人ははっきりと優れているし、怪しげな人は怪しげだ。それらを

「自分より若いから」

ということで敬わないのではなく、若かろうが何だろうが、称えられるべき人格は称え、年上からでも敬うべきだろうと。


「褒めると調子にのるから」

そうですかね?

それこそ、素晴らしい人格は心底謙虚であり、ある時期調子に乗ったとしても、きちんと身をわきまえて成長を続けると思います。

調子にのって駄目になるのは、もともと駄目な人格。逆に、そういう人も見極める力も必要だと思います。

沖縄県芸、レッスン。

posted by take at 20:09| 活動報告

2016年03月15日

子供時代 大人時代


きっと、小学校出る位までの親子の関係や家庭環境は、その人の性格形成に物凄く影響があって……

本物の愛情をたっぷり受けたかどうかもあるが、両親の習慣や価値観、会話も、小さい頃は考察も何もなくリトマス試験紙のように、素直に吸収しているでしょうから。そういう意味で、親は厳しかろうが荒っぽかろうが

“ある程度正しい発言”

をしていることは大事だろう。反面教師や反骨ったって、そんなのも無理なくらい純粋なのが子供だということだろうから。

そうは出来てない親に限って、子供の具合の悪さを学校のせいにしてくると聞いた。

大学で教える僕にとっては、家庭の細かい実力ははかりかねるが、ただ性格や価値観のほとんどは、大学に入った時には出来上がっており、その後問題を感じたしなめたとしても、根っこまでは届かない印象。


で、そうなると大人になり、社会へ出て、家庭をもちとなってからの、長い時間の人格形成だが……

大人になると、今度はあれこれ考えながら生きることになる。周りには、尊敬されたり人望の厚い人もいれば、軽蔑されたり認められない人もいる。愛される人、嫌われる人。この多様なサンプルは、全て自分がどう生きていくかを考察する材料だ。

「自分は不本意だが周りに認められない」と言ったところで、社会の評価というのは概ね当たっているので、ほぼ動きようがない。そこではうまくいかないからと、自分を認めてくれる人にひっついていくことになるが、大体類は友を呼ぶで、似たような人格で集う可能性は高く、認められないコミュニティに染まる可能性も高い。

つまり、正統的にうまく生きたいなら、周りのサンプルを教科書に、自分で自分を変えていくしかない。素晴らしい人に出会えばなんてことも考えるが、やはり大人が歩む教育は、周りの人や環境に主軸があるのではなく、自分自身しかないのだと思う。素晴らしい環境で、素晴らしい人格に囲まれていても、駄目な自分を変えられない人もいる。

小さい頃は親、大人になったら自分。

当たり前のような言葉だが、違う言い方をすると


「子供の頃は、どんな親の子として育つかにかかっている。大人になると、周りでは全くなく、とにかく自分自身の力でしか自分を変えることはできない」


となるのだと思います。


N響金管アンサンブル、テレビ収録。

posted by take at 20:08| 活動報告

2016年03月14日

印象的な区切り


東邦音大トロンボーンアンサンブルの香川公演が終わった。

楽聖たちは、とても充実したサウンドで、初めてアンサンブルを聞くだろう人たちの中に、好意的な印象を残したと思う。

これで、今年度の研究と発表の全てが終わった。最後に向けて、楽聖たちは本当によく頑張り、しかも今までにないレベルを示すに至った。

来年度はまた新しい楽聖を迎え、更なる美しさ、更なる技術、更なる安定、更なる説得力、更なる魅力、更なる感動を目指すことになる。

それが楽しみであると同時に、アンサンブルをやりきったこのメンバーでの区切りに、一抹の寂しさを感じる。それくらい、彼らは

『良い演奏をするという個性』

を残していった。

僕自身が極めて日本人ぽいのかもしれないが、チームの力を利用して個人のスキルを上げていくという感覚に軸足がある。

オケスタもだが、トロンボーンのアンサンブル自体の力を更に活用するパターンを見つけながら、より自由に、そしてより本物の演奏家に近づけるよう、更に研究し、サポーターとして僕自身が極まっていきたい。

そんな強気で、希望溢れる発言になるほど、東邦の楽聖たちは、立派にアンサンブル演奏家として光っていた。

高松の若者たち、聴衆たちに、トロンボーンの魅力がより多く伝わったことを願いながら、最終の飛行機で東京に戻ります。


東邦音大トロンボーンアンサンブル香川公演。
次は沖縄。彼らも頼もしい。楽しみだ。

posted by take at 22:30| 活動報告

2016年03月13日

メッセージ

大槌で被災したのが、高校二年生の終わりだった臺君。以来、お父さん共々お付き合いがあります。

大槌高校卒業後東京で学び、現在はジャズミュージシャンとして、音楽を手に復興と歩む。

彼が一昨日放ったメッセージは、一人の被災者の実寸大の叫びであり、この心が震える言葉たちからこそ素直に感じ、気持ちを生み、明日からの道のりのエネルギーに変えることが大切だと思いました。皆さん、是非読んでみてください。

僕はもう10回以上、読んでしまいました……

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臺 隆裕 3月11日 22:14

大槌滞在 終了しました。

いろいろ書きたい事があります。
恐らく長文になります。
僕なりに気持ちを込めて書きます。読んでもらえたら嬉しいです。

3.11
5年前の今日
僕は死にました。
肉体的な死ではなく
それまでの臺隆裕はいなくなりました。
震災のショック
とかではありませんが
以前の自分の記憶がありません。
思い出はありますが、自分という存在がわかりません。
音楽は好きでした。それしか分かりません。

波に飲まれた街をみて感情に蓋をしました。
感じる事を放棄しました。
自分でも驚くぐらい簡単に蓋をしました。
涙は出ませんでした。

ヘドロや生臭い匂い
夜中もずっと爆発するプロパンガス、
火事で明るい夜の空
毛布一枚で喧嘩する大人
空腹を訴える子供
寒さに凍えるお年寄り
泣き声
そして遺体

感情に蓋をしたから見れました。

父さんが来てくれて
身内が生きている事を知って
少し余裕が出来た時

あぁ音楽やりたいなぁ
と思いました。
そんな自分に怒りました。
そんな贅沢言ってる場合じゃない。人が亡くなってるのにふざけるな。と。
音楽じゃ人を救えない。
泣く子供をあやすことも
凍えるお年寄りを温めることも
喧嘩を止める事も
亡くなった人を助ける事もできない。それまで音楽しか個性が無かった僕は 音楽の無価値さに絶望しました。

自分が許せなくて
さらに心の奥に行って
笑う事もなく
泣く事もなく
生きてる意味もわからず
心臓だけ動いてる物体と化しました。

直後に内陸に避難して
ラーメン屋さんに連れて行ってもらって
お冷が出てきたとき
え、飲んでいいの?
と父さんに聞きました。
父さんは悲しい顔をして
飲め
とだけいいました。

震災直後は
水もちゃんと飲めなくて
食べ物もミートボールぐらいのオニギリをもらって
それがとんでもなく美味しくて。

普通に水を飲むことが出来ませんでした。ラーメンなんて贅沢できませんでした。
それでも父さんは
食え
とだけ言ってくれました。
無理やり喉に通して
現地にいる仲間の事を想って自分だけ贅沢してるという申し訳なさが込み上げました。

内陸に避難中
僕は空っぽでした。
トランペットで鍛えた口は笑う事を忘れて衰えて
ギターで出来たタコがポロポロ取れて
音楽も出来ない
友達にも会えない
自分が分からない
そんな時間を一ヶ月過ごしました。

その間
自分に怒りながらも
音楽に対する欲は日に日に募って
6月やっと演奏が出来ました。
爆発しました。
全てが壊れました。
感情の蓋も涙腺も音楽に対する欲も他者と作っていた壁も

そこから新しい臺隆裕が生まれました。
明日死んでもいいように、
面白い事には全力で笑い
嬉しいこと、悲しいことには枯れるまで泣いて
毎日他愛もない話ができる家族や友達がいて課題に追われる毎日の幸せを噛み締めて

音楽をやり続けました。

ただ
僕は弱い人間です。
新聞やテレビでいろいろ書いてくださりますが、僕は本当に脆い人間です。
支えてくれる人が居なかったら
皆さんが知っている臺隆裕はここにいません。

ありがとうございます
という言葉はそれ以上の意味にならないので悔しいです。
ありがとうございます以上に感謝してます。

今年の3.11は僕の中で大きな変化を感じました。
まずここに被災体験をちゃんと書けること
被災した時にいた母校で街を見ながら黙祷が出来たこと
海岸にいって献花と献奏が出来たこと。
今まで怖くて出来なかった事です。

5年かけてやっと
震災を直視してます。

仲間がいて
支えてくれる人がいて
応援に駆けつけてくれる人がいて
自分の音楽に確信が持てて
やっとここまで来ました。

でも今日の追悼演奏
怖くて怖くて仕方なかったです。
やっぱり手が震えて
息は吸えなくて
歯が折れるんじゃないかってぐらい力んで
音が震えてました。
何度も涙が出そうになりました。
目が熱くなって
喉が熱くなって。
その場には100人ほどのお客さん
その向こうには1300人の死者
本当に吐きそうなぐらい緊張しました。
しかも5年前と同じ曜日
同じ天気
フラッシュバックしまくりでした。

演奏は下手くそだったと思います。
それでも今までの3.11で1番胸をはれた演奏が出来ました。
人との繋がりを感じていました。

僕がやっていることは自己満足かもしれません。
それでも生きてこれてます。
死ぬ時後悔したくないので被災体験を音楽と言葉で伝えたい。本気でそう思ってます。
それが僕が亡くなった人に対して出来る唯一の事。

そして大槌の為に出来る唯一の事。

それを支えてくれるどころか同じ立ち位置で肩を組んでくれる仲間がいる。
応援してくれる大人がいる。
音楽が出来る。

幸せです。心の底から。
笑えてよかった。
泣けてよかった。
生きてこれて本当に良かった。
だからこそ亡くなった人の為にも僕は必死に生きてみせます。
絶対に亡くなった人たちの事を忘れさせない。
僕が生きてる間は絶対に。
僕の命はそこに燃やしたい。
いつか僕が死んだ時
同じことをしてくれる人が現れるように大槌に音楽を教えにいきます。その為に東京に帰って勉強します。

まだトランペッターとしても
大人としても未熟です。
勉強させて下さい。
演奏させて下さい。
伝えさせて下さい。
話を聞いて下さい。

僕はどこへでも行きます。
呼ばれればどこへでも。

もちろん受け身になりすぎないように自分でも動きます。その時は足を運んで下さい。

5年という月日で
変わった事は沢山あります。
ただ知っておいてほしいのは
5年は5年。
6年目も現地は変わらずに静かに3.11を迎えます。
区切りじゃないのです。
まだまだ助けは必要なんです。
これからは音楽が真の価値を発揮できる期間です。
音楽家の皆さん
プロもアマも関係ありません。
一緒に動いてください。
あなたが音を出す事に意味があるのです。
企画者のみなさん
一緒に考えてください。
あなたが被災地を考える事に意味があるのです。

これからが僕の本当の戦いです。
でも先ほども書いた通り僕は弱い人間なので皆さんのその胸にある熱いエネルギーを僕と被災地に届けてください。亡くなった人に届けてください。

一緒に戦ってください。

僕は
【槌音プロジェクト】は
その最前線に居続けます。

みなさん

改めてこれからも
臺隆裕をよろしくお願い致します!!!

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Nーcrafts松山公演。


posted by take at 18:54| 管理人よりお知らせ

2016年03月12日

品川宿


『品川宿は、東海道五十三次の宿場のひとつ。東海道の第一宿であり、中山道の板橋宿、甲州街道の内藤新宿、日光街道・奥州街道の千住宿と並んで江戸四宿と呼ばれていた。

慶長6年(1601年)に、中世以来の港町として栄えていた品川湊の近くに設置され、北宿、南宿、新宿にわかれていた。場所は、現在の東京都品川区内で、北は京急本線の北品川駅から南は青物横丁駅周辺までの旧東海道沿い一帯に広がっていた。目黒川を境に、それより北が北品川宿、南が南品川宿、北品川の北にあった宿を歩行新宿(かちしんしゅく)といった。(現在の北品川本通り商店街から品川区北品川2-2-14の法善寺辺りまで)』 【Wikipediaより】


ということは、新馬場の我が家はモロ品川宿ということだ。弥次さん喜多さんも、お伊勢参りのスタートよろしく我が家の辺りに宿泊し遊び呆けたに違いない。(実はうちの土地には、以前土俵があったらしいのだが。どひょうっっ!!)


平成の世でも、旅するもんからすると、実はこの品川宿はい〜い場所なんですわ。

僕は旅ありきでこの場所に居を構えたわけではないのですが、住んでみるともの凄く便利。新幹線、乗りにいくのも降りて帰るのも、家とは20分的雰囲気。人によっては、品川や東京に着いてからも1時間以上かかりまだまだ旅の途中って感覚もあるでしょうが、僕はもう帰ったも同然。

更に近年、凄くメリットを感じているのが飛行機。羽田空港とも30分前後の感覚。高松は以前から年五回、今年度から沖縄も六回から八回沖縄へ行くことが決まり、N響はじめ他の旅も含め年間月間飛行機率はぐぐっと上がっている。こうなると、羽田空港との距離感は本当に大きくて。

旅ってやっぱり、ただでさえ体力消耗の激しいものなので、実は家の位置は大きな影響がある。身体にとっても気持ちにとっても。

皆さん、旅が多い人は実は京急の品川―蒲田間が、凄くいいですよ。オススメです。

きっと、品川宿の時代からの名残が、平成の旅にまで、世紀を超えて関わってるのだと思います。


N響鎌倉公演。

posted by take at 18:17| 活動報告