2016年02月05日

フレーズ その2


そもそもフレーズを長くとるということはどういうことなのか。

「展開と変化がある音楽のラインそのものが、物語としてスムーズに、一切滞らず聞ききれる」

ということだと思います。

物語に必要なのは互換性と必然性。

この互換性、必然性というのは、音と音との間に隙間を作らず演奏するというメンタルだけでは得られない。音楽にも演奏にも変化は必要で、“変化させながら、変わらない一本の筋を通す”という取り組みが必要になる。

変化? 変わらない? どっち? 両方??

ここが、難しいポイント。私たちがフレーズを短くとる(とりたくなる)のは、この変化という麻薬のせいだ。

とにかく変化をつけたくなる。短いスパンでめくるめく変わる変化、フランス音楽の万華鏡を覗くような和声感変化の快感は、まことに魅力的。和声に限らず、息を納めすぎて短いフレーズで一度終了してしまうのも、そこで納めるという変化をつけたくなるから。

しかし、そういう細かい変化への欲を捨てる必要はない。ただ、そればかり意識すると失うものがあることを知っていたい。

『なにかを選ぶということは、なにかを諦めること』だから。


この変化をつけたい欲以前に、必要な聞き手の感性にヒットする真実を知りたい。

それは、最初の音が次の音へと変わるまでに、向かう方向が聞き取れ、変わった瞬間にきちんと密な関係だったことが確認でき、しかもなぜその音へと変わったのかという感性的理屈に極めて説得力がある。つまり必然的音移動が実現できる。そしてその次の音へも同様、休符へも同様を次々と繰り返し実現し、紡いでいきながら最後の音までたどり着き、その音の次に来る静寂にまで同様の関係性があり完結する。

実はフレーズひとつを長くとるにしても、理想としてはこの

“一曲まるごとワンフレーズ”

みたいな感覚を持たないと実現しない。


もうひとつ、音の伸び方のキャラクターも聞き手の幸せに大きな影響力がある。聞き手は、未来に向かっているテイストが強い音に強力な魅力を感じる。止まったように聞こえるものだと、聞き手の気持ちも一緒に止まり、考え事をする余地を与えてしまう。

変化をつけながら、例えばディミヌエンドをしながらでも、音は未来へ向かわなければならない。変化をつけたり、句読点をうったり、大見得をきることに意識を使い過ぎると、気がつくと演奏家自身が未来へ向かうのを止めていたりする。当然聞き手も、その場にとどまっている可能性は高くなる。


そんな、音楽の変化と成長、そして一本の筋というのは、そのまま私たちの人生と被る。

若い時は刺激が好きで、そこに意識が特化すると “後先かえりみない”となる。つまり今に留まることになり、やはり聞き手の耳も留まることになる。

結局は、今を一生懸命生きることが大事だが、それは全て次の瞬間と互換性を持つべきであり、一寸先を目指し向かい続けるしかない。

一寸先は闇かもしれないが、全てにおいて不確かなことは確かだ。だから、向かえばなんとかなると信じて、突き進むしかない。人生と同じ。


もうひとつ同じことがある。

演奏から得られる感動というのは、計算して作られたためしはない。オーケストラの演奏だって、同じ指揮者、同じ曲でも日によって普通の名演だったり、超感動的だったりする。

人間の思考とアイデアで“作れる”印象というのは限界がある。

だから、せっせとアイデアを駆使するのではなく、未来へ向かってとうとうと息を送り続け、その息の中で一生懸命真摯に表現し続ければ、不意に感動が訪れたりするもの。

これまた人生と同じ。



長いフレーズとは、私たちが目指す生きざまと同じ。私欲を捨て真摯に向かい続ける。そうしたら、自動的に長くなり、不意なる感動が訪れるに違いありません。


N響定期練習。川越へ。

posted by take at 17:12| 活動報告