2016年02月09日

ヒロイック


いよいよ今週末の日曜日、ブロカートの本番なんですが……


曲が決まった時

「名曲になったなー、重めやなー」

くらいにしか感じてなかった。ある意味で、新鮮味はないかなと感じた。もしかしたらありきたりで、お客さんの興味はひきにくいかもなんて。

練習を重ねてきた今は、まるで違う印象です。


「こ、こりゃ大変だ……」


まず、どの部分を見つめてみても、薄さを感じる部分が一切ない。薄さというのは、たとえば作品によっては 「ここはまあ、繋ぎの役割で書いたのかな」 とか 「ここは、あまり霊感が降りてこなかったのかな」 とか、そう感じる曲はありますね。いいところの引き立て役になっている部分のある曲。


ま、全く無い。ずっと濃ゆくて、ずっと厚重(あつおも)。


レオノーレ第三番。最初から最後の一音まで、序曲のくせに交響曲並みに内容豊か。無駄な音無し。意味合いありまくりなので、序曲なのに一回通すとへとへとになる。軽やかな部分あれど、音楽感的軽さは感じられず、重く始まり、たくましく展開し、強く終わる。


ドンファン。 N響では、アルペンや英雄の生涯などシンフォニーサイズもよくやるので、比べて 「少しは小ぶりで楽かな?」 なんて思ったりもしていたが、全体とガッツリ向き合うと

とんでもない!!!!!

なんて力強い音楽。その内容の濃さと情報量の多さ。凄いスコア。それぞれの有機的繋がりの隙の無さゆえの緊張感の持続と、希望、官能、葛藤、爆発、死といった描かれる人間の内面に対する表出のハードルの高さ。レオノーレの10分でへとへとだが、ドンファンの20分で既に灰になる勢い。


エロイカ。とにかく、「一番好き」なんて人が一人や二人や、百人や二千人じゃすまないキングオブ名曲。今回携わるようになって一番聞いたのは

「エロイカ、一番好きなんです」

「エロイカやるんだ。いいなあ」

「いいよね、エロイカ。聞きにいきたい」

使いふるされた名曲だと思っていたら大間違い。考えも印象も甘かった。惰性の反対、極めて期待感をもたれるコメントをたくさんいただいた。

で、やってみたら更に甘い考えで人生を送ってきたことがわかった。これこそまさに、いろんな意味でグランドシンフォニー。内在する力は半端なく、逞しくあり、ヒロイック。右手拳は挙げたままであり、人間の精神描写は心にズシッとくる重さとして、その魅力が持続。それが全ての音にギュッと詰まったまま50分、力を抜いたり道の駅に寄る場面無く、これまたやりきらなければ許してもらえそうにない。


そっか、この手抜き感一切無い感じが、この三曲をやるということなのか。


オーケストラのメンバーは、凄い勢いで力の真実へと向かっています。弱音は無い。作品の雄々しさに対抗すべく、自らのヒロイックな取り組みを、真剣まくりでやり続けています。なんだか偉い。


僕もくくる腹はくくりました。こうなったら灰になろうが、撃ち破られようが、最期まで指揮台に立っていたいと思います。


あるN響の方が

「凄い選曲だね。それじゃN響のプロじゃん。アマチュアでは意外とできなかったりするよ」


そ、そうだったんですね……


ブロカートフィルハーモニー管弦楽団第36回定期演奏会

2016年2月14日(日) 午後2時開演
かつしかシンフォニーヒルズ モーツァルトホール

指揮 吉川 武典

ベートーヴェン 「レオノーレ」序曲第3番
リヒャルト・シュトラウス 交響詩「ドン・ファン」
ベートーヴェン 交響曲第3番 変ホ長調「英雄」


大塚へ。試験を聞く。

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2016年02月08日

さんまの泳ぎ方


さんまが

「笑いのツボて、わからんわー」

と言っていたのが忘れられない。あんなにみんなを笑わせ続けて、認められている人の言葉だけに深い。日常的に “ひとつでも多く笑いをとりたい”と思っているお笑いトーシロの僕でも、その難しさを感じる瞬間は多い。

何気に発した発言で不意に爆笑がおこることがあり、そっか、これでいいのかと別のタイミングで使って小笑、中笑、失笑になることも。

とにかく、笑いが発生するべき様々な流れが必要。その場の空気やテンション、居合わせる構成員のあったまり方、覚め方、続いてきた話題の内容。そして、さりげない自然な流れでその時がくること。

ひとつわかってきたこと。このブログもそうなのですが、ウケようと考え考え狙ってみると空振りで、なんとなく“スイスイスーダラダッタ”といったら、本人の意以上に好評だったりする。

やはり自然にポンと流れの中に放り込むこと、大事すね。それまでの周りの会話に聞き手、発し手としてよく参加し、流れ、空気感を無意識に理解、持ち前のサービス精神がフワッと多目にわいた時に、口から自然と出ることが大事。周りからは、こちらの表情も見えているので、意気込んじゃだめ。相手の期待値を上げたり、時間の流れを止めるような顔つきをしたら、いくら過去に成功したネタ、考えついた笑い玉でも、人の腹筋はあまり震えなくなる。

そう考えると、考えられ生み出されたネタを駆使する漫才やコントは、本当に凄い。体験回数を重ねると、見る人の期待値の上昇に合わせて飽きられる可能性は高いが、やはり瞬発的爆発力が強いものは、腹筋振動率を上げ、賞味回数値も高くなる。

僕も何回か経験があるが、新喜劇含めライブ会場がいいのは、こちらが自分の意思で笑いに行っていること、周り中が爆笑を続けることで、そんな欲求体があったまりまくり、ちょっとのことでも直ぐ笑い線が震えるようになること。


前出のさんま。華丸大吉にさんまのまんまで披露されていた話に、ひとつのやり口、真実を感じます。

キャバクラで、五時間喋りっ放しだったそうなのですが、入れ代わり立ち代わるキャバ嬢たち、70人ほど全員をもれなく大爆笑させ、最後はスパッと終了、かっこよく去っていったと。それがテレビの時より面白かったとも言われていた。

さんまはきっと考えながら喋っているのではないのだと思う。話題なんかはきっと自分から振り、それに返ってきた女の子のコメントにサービス精神よろしく褒めたりけなしたりしながら、ちょいちょい持ちネタも放り込み、場と彼女たちをあっため、ナビゲーターとしての主導権を手離さず、休まず休ませず、繰り返し繰り返しボケまくる。その反応たるや、脳みそでおこなっているのではなく、脊髄での産物だろう。卓球やバドミントン並みのスピードと反射だと思う。

つまり、その時その時をやる気に溢れ、状況に合わせたコメントを、周りを楽しくしたいという希望一杯に、流れを止めずに表現し続ける。

ここにも、今を一生懸命生きるだけの人がいるのだ。


さて、そろそろ今日の本題に入ります…え?………はい。


演奏が生む感動も、実は同じだと思います。

その時その時を、やる気に溢れ、状況(楽譜、空間、聴衆)に合わせたコメント(演奏)を、周りを楽しくしたい(気持ちよくなってもらいたい、曲の良さ、楽器の魅力を感じてもらいたい)という希望一杯に、流れを止めずに表現し続ける。

頭で考えて計算しようとしたり、意表をつこうとしたり、アイデアで感動を引き出そうとしたりするのではなく、とにかく流れを止めずに一生懸命自分が出す音と空間に反応し続ける。そうすれば、作品の底力がある瞬間、自然発生的に感動を生む。その時その時を
一生懸命演奏するだけでいい。

オーケストラなんかも、本当はそうなのだと思う。訥々(とつとつ)と、真摯に、大盛な表現意欲を溢れさせ続け、一生懸命積み重ねていく。すると、自然と感動が不意に込み上げる。指揮者に理解しておいてほしいことのひとつ。もちろん我々オケマンの取り組みも同様に。

ここにも、人生に必要なたったひとつの真理がある気がします。


先日観ていたドラマのセリフ。貧しくもたくましく、一生懸命今を生きる女性の言葉。

「不確かな未来を心配したくない。自分には今が大事」

確かに、未来が確かだったためしはない。

今を一生懸命。

さんまも、演奏も、人生もきっとそうなのだ。


川越へ。試験を聞く。

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2016年02月07日

音〇


「量より質」 と聞けば、まず食べ物が浮かびますかね。

「何が出る?」とチューバの池田君に聞いたら「ステーキですね」とすてーきな返事が。やっぱり肉かい。

「じゃあ質や量もだが、色が大事となると何が?」 で「音」ときた。さすが演奏家。胡麻や胡椒、味噌やビール、なまこの酢の物じゃないんだ。

「じゃあ、質も量も色もだけど、流れも大事は?」 と聞いたら、「音楽ですね」と。さっすがー、音楽家。流しそうめんではないらしい。


“音”にひっつく文字は、質、量、色だけですね。少なくとも僕の日常ではそう。

「音流(おんりゅう)ってのどう思う?」と聞いたところ、

「悪くないですけど、意識が音ひとつだけに向かうような危険なイメージもありますね」と。更に

「流すって言葉のイメージが広くて、てきとうに流すみたいな感じになると、更に危ない」

なるほど。ただ、僕自身は興味のあるワードです。

「音動(おんどう)ってのは?」

「いいすね」

「音向(おんこう)は?」

「いいんじゃないすか」

彼の中では 「音動」「音向」「音流」の順番で採用らしい。

音色がきれい。音質が魅力的。音量がダイナミックだった。

これらの言葉は馴染みがありわかりやすいが、たとえば


「音動が魅力的な演奏ですね」

「音向が素晴らしい」

「君の音流はどう表現したいんだ?」


なんてのはどうでしょう? 賛否両論ありそうですが……


室内合奏団。N響定期。ブロカート。

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2016年02月06日

カレー春雨


身内の話でなんですが、家人の作るカレーは昔からとても美味しくてですね、本人曰く「あるもんで適当に作っている」と言うんですが、大宴会のシメで出すカレーうどんなんかも大好評だし、ワインの収穫祭の二次会は我が家でカレーを食べるというのが、参加者のリクエストになっていたりします。


で、そのカレーの食べ方ですが、一番ポピュラーなのはサフランライスか普通のご飯にかけるというもん。まあカレーライスですね。

で、時々ナンも焼いて登場。カレーナンです。ライスとダブルの時も。

で、我が家で比率が高いのがカレーうどんです。最近は、湯だめのうどんのつけ出汁スタイルでいったりします。ルーが飛びにくいパターン。


今朝はこれらカレーファミリーに、ニューフェイスが。その名も

『カレー春雨』

まあカレールーに春雨が入ってるだけなんですが、これがですね、とてもいいんですよ。

立ち食いなんかでカレーそばも食べたことありますが、うどんやそばたち麺類の中で、一番ルーが絡むんですね。

持ち上げた春雨と同じくらいの量のルーが絡んでる印象。それをすすりながら口に入れると、カレー味の麺を食べてるというよりは、ルーをたっぷり楽しんでいる感も強い。

スープカレーの割合に近い印象ですが、さらさらルーじゃないので、とろ〜りカレーの満喫感が強いのです。

だからといって、ルーだけ飲んでるというよりは食べてる感もあり、なんとも楽しい。

新しいカレーとの付き合い方。いいですよ。是非お試しあれ。


N響定期。

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2016年02月05日

フレーズ その2


そもそもフレーズを長くとるということはどういうことなのか。

「展開と変化がある音楽のラインそのものが、物語としてスムーズに、一切滞らず聞ききれる」

ということだと思います。

物語に必要なのは互換性と必然性。

この互換性、必然性というのは、音と音との間に隙間を作らず演奏するというメンタルだけでは得られない。音楽にも演奏にも変化は必要で、“変化させながら、変わらない一本の筋を通す”という取り組みが必要になる。

変化? 変わらない? どっち? 両方??

ここが、難しいポイント。私たちがフレーズを短くとる(とりたくなる)のは、この変化という麻薬のせいだ。

とにかく変化をつけたくなる。短いスパンでめくるめく変わる変化、フランス音楽の万華鏡を覗くような和声感変化の快感は、まことに魅力的。和声に限らず、息を納めすぎて短いフレーズで一度終了してしまうのも、そこで納めるという変化をつけたくなるから。

しかし、そういう細かい変化への欲を捨てる必要はない。ただ、そればかり意識すると失うものがあることを知っていたい。

『なにかを選ぶということは、なにかを諦めること』だから。


この変化をつけたい欲以前に、必要な聞き手の感性にヒットする真実を知りたい。

それは、最初の音が次の音へと変わるまでに、向かう方向が聞き取れ、変わった瞬間にきちんと密な関係だったことが確認でき、しかもなぜその音へと変わったのかという感性的理屈に極めて説得力がある。つまり必然的音移動が実現できる。そしてその次の音へも同様、休符へも同様を次々と繰り返し実現し、紡いでいきながら最後の音までたどり着き、その音の次に来る静寂にまで同様の関係性があり完結する。

実はフレーズひとつを長くとるにしても、理想としてはこの

“一曲まるごとワンフレーズ”

みたいな感覚を持たないと実現しない。


もうひとつ、音の伸び方のキャラクターも聞き手の幸せに大きな影響力がある。聞き手は、未来に向かっているテイストが強い音に強力な魅力を感じる。止まったように聞こえるものだと、聞き手の気持ちも一緒に止まり、考え事をする余地を与えてしまう。

変化をつけながら、例えばディミヌエンドをしながらでも、音は未来へ向かわなければならない。変化をつけたり、句読点をうったり、大見得をきることに意識を使い過ぎると、気がつくと演奏家自身が未来へ向かうのを止めていたりする。当然聞き手も、その場にとどまっている可能性は高くなる。


そんな、音楽の変化と成長、そして一本の筋というのは、そのまま私たちの人生と被る。

若い時は刺激が好きで、そこに意識が特化すると “後先かえりみない”となる。つまり今に留まることになり、やはり聞き手の耳も留まることになる。

結局は、今を一生懸命生きることが大事だが、それは全て次の瞬間と互換性を持つべきであり、一寸先を目指し向かい続けるしかない。

一寸先は闇かもしれないが、全てにおいて不確かなことは確かだ。だから、向かえばなんとかなると信じて、突き進むしかない。人生と同じ。


もうひとつ同じことがある。

演奏から得られる感動というのは、計算して作られたためしはない。オーケストラの演奏だって、同じ指揮者、同じ曲でも日によって普通の名演だったり、超感動的だったりする。

人間の思考とアイデアで“作れる”印象というのは限界がある。

だから、せっせとアイデアを駆使するのではなく、未来へ向かってとうとうと息を送り続け、その息の中で一生懸命真摯に表現し続ければ、不意に感動が訪れたりするもの。

これまた人生と同じ。



長いフレーズとは、私たちが目指す生きざまと同じ。私欲を捨て真摯に向かい続ける。そうしたら、自動的に長くなり、不意なる感動が訪れるに違いありません。


N響定期練習。川越へ。

posted by take at 17:12| 活動報告