2016年01月13日

永遠なるマリオ


ゲームには “クリアー” があるが音楽には無い。

数十年前、スーパーマリオをやりつくした時の虚無感は今でも忘れられない。凄く楽しんでいたしテクニックもついていた。アイテムも完璧に取り隠れ画面も全て行き、最短時間でクッパをやっつけた。もう攻略本にもそれ以上のパターンは書いていない。

そう、僕のスーパーマリオが終わってしまったのだ。目指していたのは達成感であり、喜びに包まれるのかと思いきや、そんなものはやってこず寂しさだけが残った。

「もう一度やっても同じことしかできないんだ。これ以上の新しさは皆無なんだ……」



音楽には、どうやってもこの【クリアー】は無いようである。

今日から共演している指揮者も、今までとは違うアプローチで幻想交響曲を色づけしようとしておりその表現はとても魅力的だが、これが理想的でパーフェクトな幻想かどうかは僕にはわからない。

というか、今までかなりの満足感はあれど、これこそが完成品だと納得できたことは、オケでもソロでもアンサンブルでも一度もない。

それが音楽、それが演奏なのだと思う。

それじゃ虚しいし切ないと感じるかもしれない。しかし、クリアーがないかわりに行き着くところのない奥行きがある。そこは無限の可能性を秘めており、自分が諦めずきちんと向き合うと、

ずっとマリオをやり続け
ずっとグレードアップし続け
ずっと新しいアイテムに出逢え
ずっと更に強いクッパと闘うことができ
クリアーできた気がした瞬間次のステージへ行きクリアー出来てなかったことを知ることができ
また新しいステージに憧れることができる。

つまり、あの時感じた虚無感は訪れなくてすむ。


実は人生はこの方が面白い。クリアーが無いと満足しない、直ぐ思い通りにならないと気がすまない人はゲームの方が良いかもしれないが、大抵の人は夢中になり続ける自分に憧れている。

音楽にはそんな魅力と、上昇指向を刺激する難易度が永遠にあり、まさにクリアー自体を生きる限り夢見ることができる。五里霧中に包まれることもあるが夢中になることもできる。霧でありながら夢なのだ。


音楽とは人間が造ったものなのに、いや、人間が造ったものだからかもしれない、人生と並走し続け、満喫はあれど完璧な満足はなく、クリアーする夢を見させ続けながら決してその達成感を与えない、そんなものである。

なぜなら、与えた瞬間、私たちには虚無感しか残らないことを、私たちの本能が知っているからなのだろう。


N響定期、練習。川越へ。

posted by take at 21:37| 活動報告