2016年01月26日

【さらう】を捨てる


練習する(合奏や合わせではなく一人で)という行為。私たち日本人は

「さらう(sarau)」

と表現しますね。

言葉からくるイメージは、さらっとしていて、まあさっぱりなもんです。あまりウェットでもオィリーでもなく、アクティブでもない。しかしその行為のビジュアルとしては、フンフン鼻息荒く(僕だけ?)真剣な目付きで一生懸命取り組んでいる姿が浮かび上がる。全然さらっとしとらん。

具体的には、譜面台に楽譜を置き、トロンボーンと“こんちくしょう”と格闘しているイメージ。


しかし私たちは、理想やイメージ、歌なくしてトロンボーンを吹く練習をしても、ミトコンドリアよりのろい歩みになることは確かなので、今一度吹くのを止めて、それらを探し確固となるものにするよう、瞑想テイストに入らなければならない。僕の場合は妄想テイスト。この時の静的ビジュアルの方が、さらうというワードテイストにマッチする気がしますね。


しかし、結果的にこの

『マイオリジナル・パーフェクトソング・デベロップタイム』

を計上せずに、ただただ楽譜を見つめながら音をだし続けている時間に終始し、それを練習、さらうと表現しているパターンこそ多く見られる。


この際、本番までの全ての準備のことを『練習』、『さらう』と表現するのを止めてみてはどうだろうか。これらの言葉を捨ててしまう。

その代わり、『探す』とか『研究する』とか、『仕上げる』とかにする。

「さあ、今から探そう」

「ねぇ、ちゃんと研究してる?」

「ごめん、飲み会遅刻するわ。仕上げ始めたら興がのっちゃって」

なんて感じ。

楽譜と向き合うのは大事だが、それを見つめながら、自分の中の『自分だけの歌』と対峙し、なんと!自分自身が納得し、そして初めて楽器で音を出すことは物凄く必要なこと。

それが無い練習をし、さらい、未来の幸せを目指すのはあまり得策ではありませんね。


青島「価値ある自分の演奏は楽譜や楽器の中にあるんじゃない、自分自身の中にあるんだ」

和久さん「青島あ、ドリフも探しすぎて腰が痛くてなあ…なんてな」


高松一高レッスン。

posted by take at 16:00| 活動報告

2016年01月25日

たち愚いふるまい


関西の大御所に、東京のオススメ立ち食いそば屋を教わる。

大御所はメルアドに

“tatigui”

が入るほどの好物なので、情報を教わるのは自然ちゃあ自然だが、僕もちょいちょい食べるし店の好き嫌いもきちんとある都民だ。自分で知っていってもいい感じだが、フリークとまではいかないので、いい感じの店を教わることとなった。

さすが好みのはっきりしている大御所のオススメ、味も店員もいい感じ。

「ここらへんでいいか、まあ立ち食いだし」

なんて失礼な感覚からくる残念感はない。

やはり先人の話は真摯に聞き、大いに感謝すべきなのである。


ぱっと入ってちゃっと食べてさっと出ていくのが、立ち食いそばの基本だろう。注文で迷ったり、スマホ見ながらタラタラ食べたり、食べ終わっても長居したりするのはモルト野暮ッシモであり、粋を愛する日本人のやることではない。愚行ジャパンですな。

聞いたとこによると、大御所も初めて入った店が凄く気に入り、なんと二杯目にいったそう。その時は一回店を出て、新しい客を装い改めて注文(自販機じゃない店)。ここに正しい立ち食イストの姿がある。いくら気に入ったからといって、長居は禁物なのだ。決して恥ずかしかったのではないはずだ。大御所なのだから。


この季節、そんな立ち食いに入ると、皆さん正しくも美しい日本の立ちグ姿でずるずるしちょります。

最近は女性の一人客も多く店も華やか。立ちぐェントルマンも立ちレぐィーも、皆さん最短時間で食べるし、回転が速いゆえの他の客への気遣い、粋に生きるテイストとしての振る舞いに徹している。

荷物少なく来店。コートマフラーのまんまずるずる。で、シャッと食べて、ピュッと風のように去っていく。

僕がですねー、そんな中、野暮野暮だったりするんすよー。

まず、よくトロンボーンを持っている。これが立ち食いそば屋には、あまりそぐわないのよねー。場合によっては、隣とも後ろとも人と密着しちゃうくらい狭い店もあったりして。空いてりゃいいんだけど、とにかく長い楽器なんざ周りの迷惑な感じ。なんとか店の隅とか見つけ、置場所を確保したりするが、そこが従業員扉の前で、突然開いちゃったり、自動ドアの距離感読めず、ガラス戸がガン!!ってなったり。

で、更にダメダメなのが、僕はどうしてもコートを着たまま食べられず脱いでしまうんです。なんでやねん。

それを立てたトロンボーンにかけられる場合はそうするが、駄目な時はたたんでテーブルの下に突っ込んだりするのだが、基本立ち食いそば屋の棚って幅も高さも狭いものが多く、落としたり隣にはみ出たり。在来線の網棚と同じで、あるけどあまり利用しないのが立ち食いそば棚。そこをガッツリ使おうってんだから、もう野暮リアン、ダサイおっさんム以外の何者でもない。

でもどーしても脱がないと食べられんのですよ。なぜだろう。自分でもわからず悩んでしまう。大御所、なんででしょう?


541 「吉川君、そんなことで悩む暇あったら、練習したらどやねん(多分)」


気楽な立ち食い、好きなんですけどね、なんとも粋にくい性分ですわ。


海上自衛隊レッスン。川越へ。

posted by take at 21:28| 活動報告

2016年01月24日

現状把握理想把握


化粧をする時は必ず鏡を見るでしょう。見ながら理想の完成顔をイメージし、それを目指し細々作り上げていく。

全く自然なことですね。自分が目指す理想なくして化粧を始めたとしたら、そら酷い塗り絵みたいになることでしょうから。

僕はノリで女装したことはあるが、その時の化粧は他人にしてもらったので自分でやったことはない。そんな化粧初心者なら、理想やイメージ無くとにかく始めることもあるでしょう。

しかしやり馴れた人なら、自分が美しく見えるパターンを必然のように知っていくだろうし、その理想、イメージこそは何よりの宝物ではないでしょうか。たとえある時、他人に導いてもらった美しパターンだとしても、それがあるのと無いのでは、化粧をした結果もする価値もまるで違うでしょうから。


私たちのトレーニングはどうでしょうか?

毎日のルーティンから始まり様々な練習をしますが、自分の演奏に対する理想やイメージは持てているのでしょうか?

【それが持てているところから初めてスタートできるということ、化粧のように。持ててなかったりぼやけていたりすることの無意味さ、化粧のように】

に関して、どのくらい重要に感じられているのだろう。

自分が吹いたものは、リアルタイムで検証するか、録音して検証するかのどちらかになる。“全く検証メンタルが無い” というのはまあ論外として置いておいて、その時に“現状の不備に対する理解”はもちろん必要だが、“どれくらい不備なのか”は、

『自分の理想と比べる』

というやり口こそが大切。誰でもわかるようなミスだったり、いかにも残念な不備なら理想も何もなく正すことは出来るかもしれませんが、本当に自分が

【聞こえて欲しいように=吹きたいように】

吹きたいなら、自分こその美しさに対する、研究からの理解、それとの現状のギャップの理解は物凄く必要だと思います。

実は、録音を聞いた瞬間に、現状を正確に把握することが100%やりきれてない可能性も見えてきました。

「あちゃ〜〜」

で留まっている可能性。

なぜなら、現状の把握は理想との対比で生まれるもので、理想があるような無いような、無いわけではないが、じゃあどうなのだと言われたら、これからイメージしますみたいな状態だと、比べる力ははなから無いことになるから。


やはり、自分の理想を探す力こそが必要な気がします。 それこそが、ものすごく大きな宝物だと思います。

化粧だって、たとえば最初の頃は、「あの女優のように」、「あのアイドルのように」と始まったとしても、やはり自分の顔が映えるオリジナルに昇華し、確固としたイメージとして、自分の中にあり続けるゆうになるのでしょうから。


ブロカート金管分奏。
やっぱりガラケーの方が書きやすい。世の中が何と言おうとこれが僕のやり口ですし、僕のイメージです。

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2016年01月23日

輝け!おっさん語


携帯は生徒が送ってくれたので、今頃空を飛んでいると思います。一緒に帰ってきたかった。

今日川越でレッスンだったのですが、「息を送り続ける」というのを強く訴えるとき、

「息を送り続け続けるのを続ける」

と続け被せをしても、日本語として成立した気がしました。

「それ良くなくなくなくない?」より直ぐに意味がわかるうえに、建設的ワードプロセッサーとして、価値ある生き方ができた気がしました。

ギャル語もいいけど、おっさん語もね!

川越へ。

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2016年01月22日

おばかばかばか


沖縄から帰ってきたのですが、しっかりと携帯を那覇に忘れてきました。

はあーー。

初めてコンピューターでこれ書いてます。アホみたいですがガラケーの方がぜんぜん書きやすい。

明日は沖縄でも雪が降る可能性もあるとか。降ったらとにかく大騒ぎだと言ってました。

あ、靴、戻ってきました。

ここらへんが限界です。皆さん、また明日。


沖縄県芸、レッスン。帰京。


posted by take at 22:31| 管理人よりお知らせ