2015年12月26日

本根


本音で話せる人がいないととても辛いことでしょう。また本音をぶつけてるのに、心底理解してもらえてる感覚が得られなかったら、やはり独りぼっち感は強く辛いでしょうね。


相手の本音は、まず信頼関係の有無で目の当たりにするかどうかが決まる。そして本音で話してきた時、自分がどう反応するかで、相手に、辛さが生まれるか幸せが生まれるかが分かれてしまう。

相手の意見に全面的に同調、そこへ至った経緯を認めれば、概ね辛さは生まれないでしょう。

ただ言っていることが違うと感じた場合、それでも相手を尊重すれば問題ないが、自分の意見の方へ導きたい、ある意味自分の希望の方を相手のものより通したくなった場合、結局本音を投げたこと自体悔やまれたりもする。

「言うんじゃなかった」

みたいな。

そうは言っても、なんでも同調すればよいわけでもなく、自分自身が本音でしゃべらないと、向こうからもうわべだけの言葉しか出てこなくなったりする。つまり違うと本音で思った時、ある程度そう表明しないと、これまた会話も気持ちも滞るもの。


結局、相手の“意見”と“希望”のふたつを、分けて的確に把握し、TPOで言葉を使い分けることが大切になる。

じゃあ、自分の本音じゃないことも言うことになるじゃないか?

場合によってはそうでしょう。言葉の音としての本音ならそういう時もある。これが、本音であろうが建前であろうが、言葉の限界なのだろう。

大事なのは、心根という本音。相手のために砕くことができる心の根を持ち合わせているかどうか。それが本当に根として自分の心に存在しているのか。そんな本音があるのかどうかに尽きる気がします。


N響、第九。

posted by take at 17:10| 活動報告