2015年12月20日

模作ではなく模索


素晴らしいものに憧れ、それを支えている技術を研究し、理解し、更に鍛練したことから得られる技術は、自分の表現力を豊かにすることに貢献するだろうし、自信にも繋がるのでしょう。

しかし、現代に存在する高い技術たちは、ある時代に出現した天才たちの表現意欲が、自動的にもたらしたものがほとんどではないでしょうか。場合によっては、本人もその技術がどうなっているのか、わからずに表現道具として使っている場合もあると思います。


イメージが、素晴らしい身体の使い方を導きだすということ。


それを、後に第三者が研究し、技術のあり方や体得のためのトレーニング法を理解し、若者に伝えたとします。彼らのスキルアップには繋がるだろうし、もしかしたら並ぶことはあるかもしれないが、超えること、新しい技術の出現、何より必要な新しい個性には繋がらない。


表現意欲に勝る技術の体得法はない。


具体的に書くと、

たとえばバッハの作曲の技法を完璧に研究し、同じ技術で作曲できるようになったとしたら、凄い場合は、バッハの曲と同じだけのクオリティ、魅力の曲が書けるようになることはあったりするだろう。

しかし、バッハを超えることは無理で、更に、現存しない新しい魅力の出現という、最も価値のある話にはどうしてもならない。


現存するあらゆるハイテク、素晴らしい技術を研究し、手に入れるべく努力することは大事だとは思う。だがしかし、個人がアイデンティティーの確立のため、

「誰もしたことのない表現をしたい」

という意欲のみが、価値ある技術をもたらすのかもしれません。

私たち教師も、技術の研究と理解は必要だとしても、若者たちに本当に要求するべきのは、表現意欲でなくてはならない気がしてきました。


外国人観光客が激増している現代の日本。かつてよりは、世界の日本に対する理解は深まっているのでしょう。もしかしたらイメージのいの一番は “食の日本” かもしれない。

しかし、僕がベルリンで学んだ20年前、ヨーロッパの人たちに聞いたら

「よく知らないんだが、ハイテクノロジーの国だよね」

と言われていました。音楽系の僕としては、“芸術文化の日本” とはいかないことに、少しがっかりしていました。

当時は、ベルリンのフィルハーモニーの隣に 『ソニーセンター』 が建設中で、そのイメージがわくべくしてわいていたのでしょう。先端技術好きのカラヤンの、ウォークマンやコンパクトディスクを作ったソニー、そして故大賀会長との蜜月なイメージもはっきりとしていた。

そんな技術国日本だから、日本人として、技術に対する思いも憧れも強いのだと思います。

しかし今一度、技術が表現を生むのではなく、イメージ豊かな表現意欲が価値を生む、そこに技術が自動的に宿ることを柱にしたい。


前出の技術系企業の栄枯盛衰を表現した言葉として

「かつては、誰も作り得なかったものを作りたいという人がソニーに入ってきた。今はソニーに入りたいという人がこの会社に入ってくる」

という言葉を聞きました。

私たちは、常に模索する表現者でなくてはならないのでしょう。模作する研究者ではなく。


N響、第九練習。ブロカート。

posted by take at 16:51| 活動報告