2015年12月21日

演奏中息流し放題


ある人が、前夜の飲み会を悔やんでいた。かつての生徒たちが集まってくれたのが嬉しかったそうで、二時間があっという間だったらしいのですが、 その “二時間飲み放題” の時間、ずっと自分が喋りっぱなしてしまい、当人もみんなもほとんど飲まずに会が終わったのだそう。後になって、一方的に自分が話し生徒たちがずっと聞いていた状況が、悔やまれると。

最近、この“〇〇放題”というの増えた印象です。これって、一方的なベクトルが見えるシステムですね。一定料金払うと、客が時間内は一方的にいくら飲んでもいい、店の方から反ってくるベクトルが無いイメージ。

この飲み会は、そんな飲み放題のベクトルが、先生の二時間喋り放題のベクトルに負けてしまったという話ですね。




我が演奏から、どんな印象を “一番 ”もってもらうのが得策か、を考えた。

“何よりの最終希望”は

【感動する】

で、そのためにどういう印象になるのが良いのか。この感動してもらうというのは、皆さんご存知のとおり物凄く難しく、どうやったら人がジンジンしてくれるのかのハウトゥ本は、残念ながらこの世には存在しない。ので “感動に向かいやすい状態” を妄想してみたのである。

まず、上手いと感じられてしまったり、ちゃんとしてる、ミスがないなんて思われてしまうと、実は感動には向かわないのだと思います。

じゃあ、一生懸命か? と思ったが、熱演というのは失敗作と紙一重であり、言葉としては足りていない。

積極的…は、悪くないと思う。ただ、見た目がというより、発せられている音から聞こえる生命力や躍動感の方ですね。見た目が

“フンフン (`0_0´)”

鼻息荒くやっていると、見てる方は引いていく場合も多いすから。

じゃあ、どんな状態の音? 明るい音? でかい音?

いや、どんなに明るく綺麗でも、直ぐに飽きて感動にはならないものもある。やはり

『流れ続ける息』

というニュアンスが聞こえ、しかも音量ではなく、その流れこそがクレッシェンドして聞き手に攻めてくる、そんなやつじゃないでしょうか。

それは、ある種の押し付けがましさであり、積極的な表現意欲に名を借りた、吹き放題みたいなものである。曲の最初から最後まで、

『演奏時間中息流し放題』

みたいな、一方的なベクトルエアー。


きっと、久しぶりに集まった生徒たちは、嬉しそうに話し放題話している先生を見ながら、感動してましたよ。

“せんせえ、相変わらずお元気だなあ〜〜”

って。


N響、第九練習。海上自衛隊レッスン。

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2015年12月20日

模作ではなく模索


素晴らしいものに憧れ、それを支えている技術を研究し、理解し、更に鍛練したことから得られる技術は、自分の表現力を豊かにすることに貢献するだろうし、自信にも繋がるのでしょう。

しかし、現代に存在する高い技術たちは、ある時代に出現した天才たちの表現意欲が、自動的にもたらしたものがほとんどではないでしょうか。場合によっては、本人もその技術がどうなっているのか、わからずに表現道具として使っている場合もあると思います。


イメージが、素晴らしい身体の使い方を導きだすということ。


それを、後に第三者が研究し、技術のあり方や体得のためのトレーニング法を理解し、若者に伝えたとします。彼らのスキルアップには繋がるだろうし、もしかしたら並ぶことはあるかもしれないが、超えること、新しい技術の出現、何より必要な新しい個性には繋がらない。


表現意欲に勝る技術の体得法はない。


具体的に書くと、

たとえばバッハの作曲の技法を完璧に研究し、同じ技術で作曲できるようになったとしたら、凄い場合は、バッハの曲と同じだけのクオリティ、魅力の曲が書けるようになることはあったりするだろう。

しかし、バッハを超えることは無理で、更に、現存しない新しい魅力の出現という、最も価値のある話にはどうしてもならない。


現存するあらゆるハイテク、素晴らしい技術を研究し、手に入れるべく努力することは大事だとは思う。だがしかし、個人がアイデンティティーの確立のため、

「誰もしたことのない表現をしたい」

という意欲のみが、価値ある技術をもたらすのかもしれません。

私たち教師も、技術の研究と理解は必要だとしても、若者たちに本当に要求するべきのは、表現意欲でなくてはならない気がしてきました。


外国人観光客が激増している現代の日本。かつてよりは、世界の日本に対する理解は深まっているのでしょう。もしかしたらイメージのいの一番は “食の日本” かもしれない。

しかし、僕がベルリンで学んだ20年前、ヨーロッパの人たちに聞いたら

「よく知らないんだが、ハイテクノロジーの国だよね」

と言われていました。音楽系の僕としては、“芸術文化の日本” とはいかないことに、少しがっかりしていました。

当時は、ベルリンのフィルハーモニーの隣に 『ソニーセンター』 が建設中で、そのイメージがわくべくしてわいていたのでしょう。先端技術好きのカラヤンの、ウォークマンやコンパクトディスクを作ったソニー、そして故大賀会長との蜜月なイメージもはっきりとしていた。

そんな技術国日本だから、日本人として、技術に対する思いも憧れも強いのだと思います。

しかし今一度、技術が表現を生むのではなく、イメージ豊かな表現意欲が価値を生む、そこに技術が自動的に宿ることを柱にしたい。


前出の技術系企業の栄枯盛衰を表現した言葉として

「かつては、誰も作り得なかったものを作りたいという人がソニーに入ってきた。今はソニーに入りたいという人がこの会社に入ってくる」

という言葉を聞きました。

私たちは、常に模索する表現者でなくてはならないのでしょう。模作する研究者ではなく。


N響、第九練習。ブロカート。

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2015年12月19日

集中・熱中・没頭


集中できる (してしまう) ことが、長続きすることですね。逆に言うと、集中出来ないことは途中で止めてしまう可能性が高い。

この1500日以上書いているブログですが、ほぼ電車での移動時間に書いてきました。東京に暮らしていると、電車で一時間から一時間半の移動は当たり前で、丁度品川で書きはじめなんこやで書き終わったりする。

その間は実は物凄く集中しており、途中で池袋や赤羽、大宮の駅に停まっているはずだが、まるで気づかない。

「みなみふるやあ〜みなみふるやあ〜」

のアナウンスで、

「おっ!着いた」

と慌てて降りることも。一時間以上の時間感覚がなく、気付くと長文のブログが仕上がってたりする。我ながら、没頭してるんだなあと思う。だから続いているよう。これが、

“ああ、赤羽かあ。あそこのつけめん、最近食べてないなあ”

なんて思ったりするのなら、とっくに止めてしまっているのでしょう。


僕は、やはり長く続くこと、つまり集中してしまうことを生活の柱に暮らせると良いと思っています。気が散らないこと。もちろん、起きている間ずっと何かしらに集中してたらクタクタになるので、ぼ〜〜っとしたり、ただテレビやDVDをインプットするだけの時間はあった方が良い。

しかし、自分の生活の真ん中に流れているやるべき柱なんてものは、


ガッツリ没頭

チンチンに熱中

時の流れを忘れるくらい集中


できることがいいですね。そうなるかどうかは、やはりくどいが、今を一生懸命生きているかどうかに尽きる。

「いつか自分のやりたいことが見つかったら」

と言う人がいるが、実はやりたいことというのは、私たちの日常で既にたくさん出くわしているのだと思います。

常に一生懸命生きていたら、それらに対するアンテナが敏感になり、自分が少しでも得意なことに没頭する方向へ、自動的に向かうのだと思います。ただ、だらだらと他力本願的に生きていたら、与えてもらうことばかり望むようになり、自分の趣向に対しての観察力が鈍くなり、魅惑的なアイテムをどんどんスルーしてしまうようになってしまう。そうやって、常に無い物ねだり的に希望ばかりもち、やはり集中出来ない人生の時間を送ってしまう。


ずっと続けられることこそ、奥深い世界への変化を楽しみ続けることができる。集中できるかどうかは、集中力のあるなしではなく、出会うべくして出会うのかどうか。

それこそが、自分の幸せに直結してるのだと思います。


川越へ。

posted by take at 16:46| 活動報告

2015年12月18日

今日育


今年一年で、随分考え方が変わりました。

今現在たどり着いている、教育環境に対する理想。自分でボケず戒められるように、端的にまとめたい。(端的苦手〜)



必要な環境。


学生が

“既存の表現じゃない、自分だからこその素晴らしさを実現したい”

という欲求のために、技術に対する理解を深めるための学びはありながらも、意識するのはそれではなく、あくまで表現意欲が勝り、なぜだか他のことを置いておいても、没頭、熱中、集中し続けて取り組んでしまう。そんな環境。



必要な教員の資質、能力。


技術や知識、意欲、ステイタスこそが重要なのではなく、本来人間がその世界のスペシャルな表現者、体現者になるために必要なプロセス、それが辿れるためにあるべき状況を学生に対して正確に要求でき、学べる環境を整えることができる。魅力的な表現を支える“技術”というものが、本当はどうやって生まれてきたのかに対する、正確な理解ができている。学生と共に一緒に研究しながらも、教えることによって表現者になれなくなる、個性が後退するようなことなら教えず、高い技術が自動的に宿ってくるような表現を要求できる。


………が、がんばります。



学生に必要なこと。


教わろうと思わない。表現意欲がわくような特定した分野、アイテムに対してのめり込むことに迷わない、そんな自分の選択、取り組みに対して集中することができる。得意なことに対して敏感になり、苦手なことに執着しない。周りと同じようになろうなんて思わず、自分だけ特別でありたいと思う勇気をもつ。環境はさにあらずで、いろんなことができる横並び的な人格、能力を要求してくるが、流されず、興味のあることに没頭する。協調性の中からこそ高いスキル、個性が学べることを知り、反骨とのバランスをもつ。先のことに深刻にならず、今を一生懸命生きることに、とにかく集中する。


作曲コンクールの審査のための準備。川越へ、今年最後のおさらい会。

posted by take at 14:51| 活動報告

2015年12月17日

幸心料


今日もカレーうどん。あらためて惹かれた魅力に、昨日からずるずる引きずっている。

立ち食いそば屋でね、食べてみたんですよ。

そしたらあーた!ある意味、どんなメニューよりうまいじゃあないですか!!その店で、そばにミニカレーのセットでカレーライスとして食べたことありましたが、それは冴えないもんでした。まあ期待してない分それだけの味だったんです。

作ってるの見たら、うどんの上にまずそばの出汁かけてからカレーがダイブ。これは 『そば屋のカレー』 としては定番の作り方ですが、特に凄くイケてるわけではないうどんにぼちぼちの出汁、それなりのカレーのコラボで、お互いの冴えないところは宇宙の彼方へと消え去っていたのでした。

たけ 「うまいやん……」

カレーのスパイスで覚醒する細胞、フォースの力だ。


学食にて、生徒相手にカレーうどんの力について講義、熱弁を奮う。

たけ 「私たちは幸せな時代を生きているのだよ。時が時なら、コショウはじめとしたスパイスは中国茶にはまるのと同じ、身上をつぶすまでのものでね……」

生徒ず 「……………」

たけ 「身上をつぶすがわからんか。身上とは 財産、資産、身代なんかを言うのよ。つまり、コショウ欲しさに財産つぎ込んで、家をつぶしてしまうくらい魅力があってと。しかもスパイス戦争なんて、国をあげての争いにまでなってたわけで。それが、今僕らはコショウだろうがどんなスパイスだろうが、自由に揉めることなく食べられるわけよ」

ちょいと調べてみた。

『コロンブスが、間違ってアメリカ大陸の一部を発見することになる西への航海に出たのも、モルッカ諸島のスパイスとジパングの黄金がおおきな動機。マゼランが初の世界一周をめざしたのもスパイスが理由。彼亡きあとようやく母国にたどり着いたビクトリア号には、スパイスがたっぷりと積まれていた。その販売益は、多くの乗組員や僚船の喪失を補ってあまりあるものだったともいう。スパイスが生んだ大航海時代。「香料諸島」の利権をめぐるスペインやポルトガル、そしてオランダやイギリスを交えての争いは「スパイス戦争」とも呼ばれている。17世紀半ばまで続く、血なまぐさい時代でもあった』

たけ 「もしさ、Sがとーちゃんかーちゃんに呼ばれて “どーしてもコショウが欲しいから、お前を売り飛ばすことにした” って言われたらどーよ」

S 「えー、コショウ嫌いになりますぅ」

たけ 「だよな。コショウもとーちゃんかーちゃんも嫌いになるよな。今はとーちゃんもかーちゃんもコショウも好きでいられるんだから、幸せな時代を生きてんだよ」


カレーうどんのおかげで、素晴らしくも刺激的な講義ができた。いろんな意味で大満足だ。


川越へ。

posted by take at 09:53| 活動報告