2015年11月21日

嘘をついてよい権利


まずは謝る、とりあえず謝るという価値観がある。

自分のミス、失敗と向き合わなければならなくなった時、人は二つの行動パターンのどちらかになる。

ひとつは “謝る”。

もうひとつは、しらばっくれるも含め “嘘” をついて責任逃れはじめとした自己保身に走る。

この二つのどちらかに、私たちは分類されている。

子供時代は、自分の見栄と羞恥心、決断力のバランスが悪く未熟なため、黙ってふてくされたり、しょうもない嘘をついたりする。しかし大人になるにつれ

「まずは謝りなさい」 「とりあえずは謝りなさい」

という、社会の正しい生き方を学んでいくことになる。

ただこれは、勘違いも生みがちで 「なんでもかんでも、とりあえず謝りゃ許されると思えということか!」 と突っ込みが入りがち。正確には、嘘をついて保身に走る側ではなく、正直に非を認める側でいなさいということ。実はそちら側にいる人からすると

「そんなに難しいことではない。実は簡単なことなのに、何故謝れないんだろう?」

と思っていたりする。


嘘は誰でもつくが、どんなパターンの時につくかで、嘘つきのレッテルが貼られるか否かが決まる。やはり自己保身の気持ちが強く、迷惑の罪深さを理解する力が弱い人はそういう内容の嘘をついてしまう。

実はこの嘘には特徴がある。

“いかにも真実ではなさそう”

という特徴。いいわけ含め、嘘は “もっともらしさ” がスキルであり、付き合いある人間が 「この人、嘘つきじゃね」 と感じるような表現しかできないのだとしたら、スキルが低い、あまり賢くない発言ということになる。

なぜ賢くない嘘をつくはめになるのか。

それは、自分本意、自分勝手、自己中であるという人間性がそうさせる。相手含め、実は周りの人の賢さを甘く見ている。

なぜそこへと向くのか。

協調性の無さだと思います、本物の協調性。

人はだれでも嘘をついてしまう。もし嘘をついてよい権利があるとしたら、周りを楽しませるためだったり、正当に誰かを守るためだったりし、しかも話術としてうまいこと、つまりなんだか怪しい、自然と疑っちゃうような発言にならないことが条件なのだと思います。

そうではなくて、やっぱり本物の協調性を持ち合わせてなく、だからこそ、あたおたするがごとく不自然な言い訳、不自然な発言をする、感情的になる、チームの利益からの自分の利益ではなく、自分の利益からの自分の利益しか求められない人には権利がない。

早々に

“まずは謝る”

という側にくるべきだと思います。

「嘘をつく人間は治らない」

という意見もあります。もちろん、本当に更生するには時間がかかるのかもしれない。でも、本気で人を信じ、自分一人で生きているわけではないと言葉だけではない心からの感謝を宿し、誰だって失敗することを知るが如く周りの人の気持ちに興味をもち、そんな自分を瞬間にフラットにし、

“とにかく謝る”

それしかないのだと思います。


N響定期。

posted by take at 20:29| 活動報告