2015年11月03日

情報は使っても使われるな


昨日のコンサートのMCや今日のクリニック中、子供たちに向けて、あの頃と現在の情報の違いについて話すタイミングがあった。あの頃というのは僕らが中高生だった時代、今から35年くらい前、1980年辺りのこと。

「あの頃はね、パソコンはなかった。コンピューターは一般人が使う物じゃなかった。携帯電話もない。当然インターネットもないから、YouTubeや、音楽をダウンロードするって感覚もなかった。CDもまだなかった。レコードだった。それも限られたものだった。もちろんテレビや本はあったよ」

つまり情報は現代より身近ではなく、少なく、そして時間がかかったと言いたかったのです。それ以前よりは多くなってたのだろうが、現代との差を考えると少なかった、遠かったとしか言えない。

だから自動的に飢えていた。少ないという印象を持っていたというよりどこかに、たとえば外国とかにある音や音楽、練習法なんかに自然と、そして漠然と、しかし強く憧れていた。

「だからもっと情報が身近で、手軽にいっぱい入る環境に憧れていた。でもね、あの頃が良くないとか、情報はいくらでもある現代がいいと言うつもりはありません。逆にあの頃が良くて、憧れが現実になったような現代の方が良くないというつもりもない。かつては憧れたけど、なってみたらみたで、便利だなあとは思っても満足感は充たされない。どちらかというと、若者たちの潜在的かつコントロールのきかない無自覚渇望感が増しているのも事実だからね」


そう、情報はあまりにも少なすぎるのは問題だけど、その多さ少なさと、利用する私たちの人生の充足感とは関係がないのだと思います。リンクしていない。

子供たち、そして私たちを充実や幸せへと突き動かすのは情報ではなく、やはり自然と沸き上がる


『夢であり憧れ』


に他ならない。それが沸くために必要な出会いは、もちろん運命的要素もあるが、情報とは別に、それほど少なくなく日常的に普通に転がっている。そしてそれと会った時、自分の人生の伴侶に希望するくらい強い欲求、憧れが沸いてくるかどうかだ。

「これを追及したい。手に入れたい。自分のものにしたい」

そんな直感が働き、自然と深みにはまっていく。そんな時こそ、量が多かろうが少なかろうが、手に入る情報があればせっせと入手しようとするのでしょう。

しつこく書くが、情報が少なかったかつての方が良いとは思ってません。人生に最も必要なのは夢。それを実現させる材料としての情報、その量は関係無いと言いたいのです。いつの時代も、達成するための必要最小限は、必ず存在し入手可能でしょうし。


鎖国していた江戸時代に、密かに入国していたあるドイツ人の記述として

「驚くべきことだが、周りを閉ざしている日本人は、世界中を見てきた私が感じるに、最も幸福に暮らす人々である」

というものがある。情報を放棄し、幸福を得ることもあるのだろう。


そして現代の若者や私たちが、なにかわからない虚無感に包まれ人生の羅針盤を見失うような気分になった時、それを情報の多さの責任にしてはならない。それは責任転嫁。情報の波にのまれ、流されながら時間を過ごすという、他力的一過性刺激を選び、自分自身で自分を突き動かすことを見失い漂っているうちは、人生の素人と言える。

情報は、夢へのカンフル剤である憧れ、その燃料である情熱を使い利用するものである。若者には、そんな情報使いの達人、人生のプロという道こそが、太古の昔から最も達成感をもたらしてきたことを、私たちも伝えなければならない。彼らは、自分の夢に必要な情報だけ、それをあきらめないために必要な情報だけを求め、後は他人に任せている。そんなものだと思います。


もしかしたら、自分に必要な情報というのは、夢に包まれ、もう自分の中に存在しているのかもしれない……

自分が自然と突き動き、運命が自動的に情報と出逢えるように、もう既になっているのかもしれません。


飛騨高山にて、ワークショップ。帰京。

posted by take at 17:47| 活動報告