2015年11月15日

からしれんこん再び

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皆さんは、凄く好きな食べ物だけど、日常的にあまり回数食べられてないものってありますか?

僕にとっては明らかに

『からしれんこん』

がそうです。夕べは、二人だけで九州料理に入りました。で、ファーストコールは、さつま揚げでもとり天でもなく、迷わす

「からしれんこんっ!!」

ペロッと食べきり、一時間後にはもう一皿お代わりをしていた……二人なのに、メニューは豊富なのに、一皿六切れものっていたのに。

じゃあ頻繁に食べているのかといえばさにあらずで、回数はとても少ない。一年に一回か二回あるかないか。

たけ 「これはヤバい……」

なぜなら、大抵の食べ物なら、人生のトータルに足りてるか足りてないかなんて意識にはそうそうならないが、からしれんこんはこのペースだと、結局あまり食べなかったと悔やみながら旅立つ可能性がある。

半世紀を迎えた僕があと50年生きたとして (?( ̄ロ ̄))、 50回か、多くて100回しか食べられないことになる。それでは、あまりにも後悔特盛で、旅立つにも旅立てないではないか。

しかも、食べてるやつ全部に、迷いなく美味を感じ満足しているわけではないのだ。好きだから期待しすぎている訳ではない。

「え〜〜、からしれんこんって、辛くて鼻にツーンってくるじゃなーい」

そらからしじゃからツーンじゃわ、ボケ!

ってツッコミが入れられない店は、軟弱ギャル顧客を逃したくないため、全然辛くないからしをつめていたりする。それは、からしなのかい? そんな生き方で、社会の荒波を乗り越えられるのか、いや無理だ。

「なんかれんこんって、歯ごたえ硬くてぇ」

という、ヤワヤワクネクネ系OLに迎合して、やたら薄いのを出す店も。

あのなあ、その食感こそがれんこんの魅力ぢゃろがあ。歯ごたえ、手応え、口ごたえ。そんな戯言に合わせた段階で、本当の客を何十人も逃したことに気がつかんかの。食べ物やっちゅうのは、自分の舌の信念を裏切った段階で堕落への道へと進むのぢゃ。


えー、からしれんこんについて書くのは二回目で、前回なぜ好きなのかは書いたので、ここでは割愛いたしまする。

とにかく、残りの人生70年 ( ̄ロ ̄;)、一度でも多く、ツーンからのシャクシャクを楽しまないと、悔やむことになる。

辛くもからいことの多い穴だらけの人生だが、そんな壁に負けないよう、夜な夜な立ち向かっていくしかないのである。


室内合奏団。N響定期。アマチュアオーケストラ、指導。

posted by take at 17:21| 活動報告

2015年11月14日

天上のマーラー


今回の定期、前半がマーラーの交響曲第五番のアダージェット、続いて同じくマーラーのリュッケルトによる五つの歌。後半がチャイコフスキーの第五番。

ゲネプロ、美しすぎるアダージェットを舞台裏で聞き、デリケートな美が際立つリュッケルトをステージで体感しながら

「この美し過ぎるマーラーたちを聞いた後、チャイコフスキーを聞くのって、聞く側としてどうなんだろう?」

ふとよぎりました。

あまりない曲順だと思います。マーラーからチャイコフスキー。

もちろん休憩でリセットされる部分はあるのでしょうし、チャイコフスキーがなにかを壊すと思ってるわけではありません。

ただ、マーラーのこれらって、本当にガラス細工のように美しく、儚く、壊れてしまいそうなくらいデリケートなんですよね。


チャイコフスキーの素晴らしさに敬意をはらった上で、改めてマーラーの天上の美を心が理解した今朝でした。


N響定期。

やるせなくても生きていくしかありません。この美しさが救いになりますように。合掌。

posted by take at 18:24| 活動報告

2015年11月13日

センター、解放、密度


それは、ノイズという歓迎しないものなのか、それとも音楽的魅力を増幅させるエアーの音なのか。

これは、結局聞き手の印象により判断され、判決が下されるものですが、音を出している自分が勘違いせずに日々吹けているかどうかは、まことに難解過ぎる課題です。

金管はベルが “あちら” に向いているので、演奏家自らが、直接音を確認するのが難しい。たとえば鏡に向かってしたとしても、客席くらいまで離れたら、このリアルに聞こえている直接音がどのようになるのかも、なかなかに未知の世界である。

この密度は、どのくらい拡散してしまうのか。それは心地よく聞こえているのか。硬く聞こえるのか、それとも散って聞こえるのか。

昨日、バボラクのホルンデュオ(多重録音ではない) を聞きながら、たいそう上手いセカンドプレイヤーと比べ、更に上手さ溢れる魅力が光りまくるバボちゃんのホルンに、溜め息を連発していた。


集中して考察した印象としては、

・とにかく音程のセンターがはっきりクリアーで微動だにせず定まり続けている。そこがぼけていない。(これがぼけてるというのは、的が広いというのもあるが、大抵上下のどちらかに寄ってしまっているのでしょう)

・楽器が持つ音域の幅に対し、上下どちらに片寄ることなく、ドンピシャセンターで吹いている。上系に響く、下目に豊かという印象が全くない。

・そのせいか、密度の濃いセンターと広がりきった響きが、どの音域でも全くぶれず、同じように立派に聞こえる。

・その響きがくすみというキャラクターの柔らかさではなく、透明度の高い艶として聞こえる。自然に例えたなら、艶なき木の見た目やさわり心地テイストというより、森の中、静寂の湖の、純度高く輝く水面といった感じか。

学生に聞かせたところ

「ピュアに聞こえます」

というコメントが。送っている息が、全て音になっているように聞こえることによって、本来の音以外の余分なものが無いのだろうと思った。余分なものが無いから純粋で美しいと。

離れた場所で本当にいい音に聞こえるために、発信地である自分、その耳にはどのような密度、センターや倍音のキャラクターに聞こえればいいのか。

とにかく、送った息が全部もれなく音になっている、そんな印象は必要なようです。


N響定期、練習。川越へ。

posted by take at 20:59| 活動報告

2015年11月12日

義務と権利


人としてコミュニティにいる以上、全ての人に

“明るく楽しい雰囲気”



“真剣で充実した空気”

を作る義務があると思います。結構これを人任せにしている人は多い。


そして、なんびとたりとも、どんな理由があっても

“気分の悪い険悪な空間”

を作ってよい権利はないのだと思います。しかしこちらは、結構いるどころか、正義や正論をかざして自分のストレス発散にしている場合が多い。我慢なき性分。

本当に、この義務と、無い権利が理解できていれば、コミュニティは必ずうまくいく、私たちの人生はうまくいくのだと確信しています。


N響定期、練習。川越へ。

posted by take at 16:07| 活動報告

2015年11月11日

おおらか!


今日の意見。決して自分がちゃらんぽらんであることを正当化しようとしているものではないのですが、結果そうかもしれず、そこいらへんは皆さんにおおらかに見つめていただいてですね、はははは………



世の中、白黒はっきりさせる波が高くなって久しい。

少しでも問題が発覚すれば、瞬時に改善すべく日本全国あらゆるところにプレッシャーがかかるし、会社におけるコンプライアンスに対する意識の要求や、教育機関でも、学則はじめルールを守ることが強く、強く要求されている。

SNS上でも、正論をかざし悪を切るというパターンは多いし、みんなして曖昧より、良し悪しをはっきりさせ、悪いことは駄目、正しいことをせよ、白を目指せよとの気運が強い。


しかし、この社会を形成している人間のほとんどが、真面目な部分と不真面目な部分、両方をもちあわせていると思うのですがいかがでしょうか。もちろん割合は個性豊かでしょうが、ほとんどの人が両方ちゃんと(?)もっている。

ある意味、真面目なだけでちゃらんぽらんなところがない人というのは、そんな社会という現実の中では、生きにくいのだろうと思います。

もちろん、不真面目一辺倒という人は、やりにくいどころかそもそも認めてもらえないでしょうから、やはり苦労するでしょうね。

結局大多数の真面目であり不真面目な人が、なんとなく生きやすいように、本来は設定されているはず、多数派なんですから。

僕のように、本人は不真面目なのに、周りには真面目正論剣を振りかざす人間もいて、周囲からは白くも冷たい目で見られたりするが、この棚上げこそ不真面目なわけで、いくらまことしやかであっても、それなりにみっともないものです。でもやってけてるのは、視線は冷たくても実は周りの心が温かいからなのでしょう。


人類は、一応社会やコミュニティをうまく運営するために、様々なルールを定めてます。しかし、守ったり守らなかったり、守れたり守れなかったりというのが、大半なはず。全ての人たちが、長い人生の時間をかけて、周りに迷惑かけすぎず自分自身で幸せに生ききるように、少しずつゆっくりと成長していく。そんなあたりが、結局人間の等身大の能力なのだと思います。


そのために、実は

『おおらかに』

という能力が人間に与えられているのだと思います。おおらかに見つめる、おおらかに判断する。お互い様におおらかに。


これは、人間にのみ与えられた才能だし、実はとても高い、高性能な能力なのだと思うのです。


しかし、社会はどんどんこの能力を放棄する風潮になっているし、そういう教育がなされている。正しいことをせよ、失敗は駄目、早期から正しい人として生きよ。ずいぶん若い世代から大人まで、そんな空気の中、心を病んでいっている人がたくさんいる。そらそうです。本来、そんなに早期から真面目にやれるように身体も心も設定されてない。

人間全員で、急に皆大真面目になれるわけがない。そんな能力ははなから持ち合わせてないし、未来のいつかはなるなんてものでもなく、いつまで経っても、人類なんて真面目であり不真面目なものなのだと思います。

だから、いくら情報がクリアーになり、みんなが自由に意見や正論を放てるような時代になっても、おおらかさという能力は、発揮こそすれ人類自ら放棄するものではないと思うのですが、いかがでしょう。


おおらかという言葉を聞いたら、嬉しくなりませんか。それは、この言葉こそが正しいという証明であるし、現代社会を生きる私たちが、見失いつつあるということなのだと思うのです。


N響定期、練習。川越へ。

posted by take at 17:06| 活動報告