2015年11月25日

平成棚卸し


学生にエラソーに人生を語る。時には説教、時には道徳、時には夢の伝道師となり……


そんな僕が懺悔するのは

“棚上げっぷり”

「いや、いいんだよ。自分が後輩だった時のことは棚に上げても、上級生になったら下級生に言ってやらなきゃ」

と学生時代に言われたが、あの頃の一,二年の棚と比べたら、今と30年前のものは、脚立を使っても届かないどころか、雲の更にむこうくらい高いところに。

まず、自分は五年生までやったのに

「単位取って四年で卒業した方がいいぞ」

なんて言ってる。

僕の発言を聞いていると、まるで学生時代は

一日も休まず、朝から晩まで練習室に篭り、きちんとルーティンをこなし、あらゆるエチュードをさらい、曲を完璧に吹き、おさらい会も試験も名演だらけ、副科のピアノはピアノ科如く上手く、新曲名唱、聴音完璧、設定されたレッスンは一度も遅刻欠席なんかなく、代返とか代筆なんて言葉は知らず、借りた飲み代は踏み倒さず(いやこれは、記憶にないんですが、忘れてるというたちの悪さを信じてしまうくらい、自分を信用してないわけで……)、言い訳の言い訳なんてせず、教授から信頼されており、約束は守り、ガキっぽい言動はなく、清潔にし、衣服もみっともなくなく、きちんと洗濯してたり、お風呂もバッチリ、下宿は常に掃除してあり、電気もガスも止まらないし、先輩とも後輩とも揉めることなくうまくやるから飲み会も楽しく、次の日のオケの授業やアンサンブルの練習に影響があるほど深酒なんかするはずもなく………


しかし本当に懺悔したいエピソードがあるとしたら、あの朝のことだ。

飲んで帰れなくなった僕たち同級生数人は、根津のやはり同級生の下宿に転がりこんだ。

彼はその頃通販で買ったばかりのベッドが自慢で、

「いいのが安く買えた。やっぱりベッドだよ」

と。せんべい布団で万年床(意味がわからない若者は、昭和のおじさんに聞いてみよう!)で寝ていた僕は、少々羨ましかったが、狭い下宿の半分近くを占めるベッドの上で、もちろん嫌がらせでもなんでもなく、嫌がる家主をよそに飲み始めた。スペースが限られてたのよ、昭和の下宿だし。

え?酒こぼしたんだろ??

いいえ、こぼしません。それどころか、かなり酔っぱらっての訪問なので、直ぐに潰れてしまい、僕を含めた三人が順番にベッドで寝ちゃったんですよ。

家主は、床。

全員寝てしまった暗闇、酷いイビキの合唱(多分)のみが鳴り響く。そんな中、突然

“バギッ!!!!!!”

鈍い音が。同時に、たいして厚くはないマットレスが腰の辺りで “くの字” に。そう、下の板が、重めの三人の無防備な寝返りに耐えられず、折れてしまったんです。

「誰もケガなくてよかったな」

翌朝、自分たちの心配をする自分たち。そして、当時恰幅の良かった彼に対し

「お前ならもっとしっかりとしたの買わなきゃだめだよ」

と。

自慢から一転、凹みまくりの彼は当時も優しくて、弁償を申し出た僕らに一言。

「いいよ、安もん買った俺が悪いだよ」


あ"〜学生って!
あ""〜〜若者って!!
あ"""〜〜〜俺って!!!

ホント酷かったっす。


N響定期。

posted by take at 17:08| 活動報告

2015年11月24日

CDの整理


N響ライブラリーの人と話していて、CDの整理の話題になった。

「整理しなきゃいけないんですよねぇ」

「ですよねぇ。うちもです」

みたいな。

彼女のお宅にはご主人のとも含め、6〜700枚はあると。うちは1000枚は超えてて、多分1,4〜500位はあるんじゃないかなあ。そのほとんどが僕が買ってたまったものなので、整理は当然僕の役割です。

数年前、家人が壁一面にラックをあしらえてくれて、整理しやすくなった。その時一気に、ジャンル別に細かく分けて整理はした。

オケ、弦、ピアノ、木管、金管、トロンボーン、ホルン、ジャズ、テレサテン等、まあ自分にわかるようにわけてみました。

ただクラッシックって難しいのは、作曲家別ったって、一枚にいろんな人のが入ってたりして、内容をガッツリ記憶してないと、行方がわからなくなったりする。そもそも、その曲の持ってないと思い買ったら、全然違う作曲家のとカップリングになってあったとか。更に、既に持っているのをシレッと買ったりする。今まで二,三枚あった。

うちの問題は、そのCDのライブラリーは一階の部屋で、聞くリビングか二階。で、いくつかピックアップしてもって上がり聞く。それを返す時、初期は整理のルールも覚えていたので、きちんともとある場所に返してたのだが、だんだん適当になり、はしっこのスペースに突っ込んだり、新しいの買って、適当に突っ込んだり。

で、今は、もう何をどこに突っ込んだか知るよしもなく、ラックの半分は宇宙のようになっていき……


ただ、僕はケースと中身が適当というのは昔からない。これだけは我慢できない。一回それやったらもうどうにもならないだろうなあ。

若い頃、友達の下宿に行ったら、円盤が出放題。片付けてあげようと、ケース開けたら違うの入り放題でびっくりしたことがある。大学のトロンボーン部屋も、全員じゃないだろうが、共有CDの扱いが雑で怒っていたりする。

まあ、でもラックがあれじゃ僕は人のこと言えません。せっかく家人があれだけ大変な思いをして、ラック組んでくれたのに……


整理しなきゃなあ……あ、思い出した、ジパングの楽譜もだ! 前はね、大体有無も場所もわかったのですが、今はあのロッカーも無限に拡がる大宇宙になりつつある。頑張りましょう。ね、ジパングの皆さん。


N響定期、練習。レッスン。

posted by take at 21:20| 活動報告

2015年11月23日

目をつぶる


以前から “目をつぶって練習することの効能” について考えることがありました。単純に、自分の音を聞くことに集中できるのではないかと。しかし習慣化はせず、生徒たちと議論したり要求することもありませんでした。

もしかしたら目をつぶるメリットなんて無いのかもしれない、と思ったりもしていました。


音を真っ直ぐ伸ばすこと、そういうアプローチ、トレーニングが大切だということは当然理解しているのですが、最近はそんな取り組みの中でも特に

“耳が持続して聞き続ける”

ことの重要性を、ピックアップして研究していました。

その際、目線があちこち游がずに、一点を見ていた方が耳の持続には良いなとは思ってましたが、このポイントを特に重要視した場合、目をつぶり練習することに強いメリットを感じはじめました。

視界の中に動きがあったり、あるいは自分の意思で見る場所を動かした場合、耳が持続して集中、一点にいつづけるのはどうしても難しくなります。よってベルの一部など、動きようのないところを見つめ、しかも目の意識より耳の意識を高めることにより、耳の時間を維持していましたが、これに関して目をつぶることはより効果がありそうなのです。

ただ音を聞いたり、演奏行為に集中するためと、漠然と考えるより、

“音の持続という時間の継続のため”

と、目的を定めた方が取り組めそうです。

長時間ずっと目をつぶり続けるのも、実は不安とストレスを感じる気もしているので。


N響定期、練習。NTTレッスン。

posted by take at 17:02| 活動報告

2015年11月22日

パワー・オブ・イントネーション


音程は、

《よかったり悪かったり》

《高かったり低かったり》

するが、

【よく喋ったり無口だったり】

【元気で目立つやつだったりおとなしくて地味だったり】

もする……なんて書くと、どう捉えますか?

和声感豊かで、音が変わる度にニュアンス変化しまくり、なんてのが想像しやすいと思いますが、伸びてる単音でもあると思うんです

彼 (音程)自身の主張がやたらはっきりしてたり気持ちはあるのかもしれないがぼやけてて伝わりにくかったり、ずっとウザいくらい主張し続けたり途中で控え目になり主役の座を明け渡したり……



大学見学会、レッスン。ブロカート。

posted by take at 17:45| 活動報告

2015年11月21日

嘘をついてよい権利


まずは謝る、とりあえず謝るという価値観がある。

自分のミス、失敗と向き合わなければならなくなった時、人は二つの行動パターンのどちらかになる。

ひとつは “謝る”。

もうひとつは、しらばっくれるも含め “嘘” をついて責任逃れはじめとした自己保身に走る。

この二つのどちらかに、私たちは分類されている。

子供時代は、自分の見栄と羞恥心、決断力のバランスが悪く未熟なため、黙ってふてくされたり、しょうもない嘘をついたりする。しかし大人になるにつれ

「まずは謝りなさい」 「とりあえずは謝りなさい」

という、社会の正しい生き方を学んでいくことになる。

ただこれは、勘違いも生みがちで 「なんでもかんでも、とりあえず謝りゃ許されると思えということか!」 と突っ込みが入りがち。正確には、嘘をついて保身に走る側ではなく、正直に非を認める側でいなさいということ。実はそちら側にいる人からすると

「そんなに難しいことではない。実は簡単なことなのに、何故謝れないんだろう?」

と思っていたりする。


嘘は誰でもつくが、どんなパターンの時につくかで、嘘つきのレッテルが貼られるか否かが決まる。やはり自己保身の気持ちが強く、迷惑の罪深さを理解する力が弱い人はそういう内容の嘘をついてしまう。

実はこの嘘には特徴がある。

“いかにも真実ではなさそう”

という特徴。いいわけ含め、嘘は “もっともらしさ” がスキルであり、付き合いある人間が 「この人、嘘つきじゃね」 と感じるような表現しかできないのだとしたら、スキルが低い、あまり賢くない発言ということになる。

なぜ賢くない嘘をつくはめになるのか。

それは、自分本意、自分勝手、自己中であるという人間性がそうさせる。相手含め、実は周りの人の賢さを甘く見ている。

なぜそこへと向くのか。

協調性の無さだと思います、本物の協調性。

人はだれでも嘘をついてしまう。もし嘘をついてよい権利があるとしたら、周りを楽しませるためだったり、正当に誰かを守るためだったりし、しかも話術としてうまいこと、つまりなんだか怪しい、自然と疑っちゃうような発言にならないことが条件なのだと思います。

そうではなくて、やっぱり本物の協調性を持ち合わせてなく、だからこそ、あたおたするがごとく不自然な言い訳、不自然な発言をする、感情的になる、チームの利益からの自分の利益ではなく、自分の利益からの自分の利益しか求められない人には権利がない。

早々に

“まずは謝る”

という側にくるべきだと思います。

「嘘をつく人間は治らない」

という意見もあります。もちろん、本当に更生するには時間がかかるのかもしれない。でも、本気で人を信じ、自分一人で生きているわけではないと言葉だけではない心からの感謝を宿し、誰だって失敗することを知るが如く周りの人の気持ちに興味をもち、そんな自分を瞬間にフラットにし、

“とにかく謝る”

それしかないのだと思います。


N響定期。

posted by take at 20:29| 活動報告