2015年10月10日

遠達性


音を出すとき、どういう響きを求め、どういうレスポンスを求めるか。その感覚として、

“遠達性優先”

という意識は凄く大切だと思います。

どうしても自分の音は、楽器の間近でしか聞けないため、離れた場所でいい音で聞こえることが大事だとわかっていても、自分の耳に心地好いものを求めてしまう。

そのこと自体は当然だが、例えば極論のような話、

“遠くでいい音に聞こえるものは、近くでは汚く感じるものだ”

というのが現実だった場合、本当に遠くでの価値を最優先できるだろうか。

プロの演奏家としては当然そうあるべきだが、必ずしも徹しれないかもしれない。(勿論、近くでは汚い方が良いという現実はありません)

しかし、自分が自分のたち位置での聴衆の耳に徹して求めてしまい、聞きたい響きやサウンド、レスポンスを求めてしまったなら、結果遠くではそう聞こえてはいない、ということになる可能性は極めて高い。

そうならないために、遠達性、遠くへ届くような吹き方、レスポンスを求める、そのこと自体を優先することは、凄く大事なのではないだろうか。


楽器の製作、練習の仕方、そして自分のサウンドの選択の柱にそれがあるべき。ある意味、優先ではなく

“最優先”

しても良いのかもしれない。

一番遠くへ届く音こそ良い音。遠くへ届く道具こそよい音が出る道具、みたいな。実際世界中で強く求められている楽器は、遠くでのモニタリングの結果こそを一番優先しているのだと思います。そこが二の次三の次になり、奏者の近場での印象を優先すると、結果需要は減ると。

そしてこれは道具への欲求のみならず、私たちの日常のトレーニング、音への理想にも必要なこと。

僕が知る限り、遠達性を最優先しているプレイヤー代表はチューバの池田君。彼は荒川の土手で、反対岸の更に向こうの野球場の更に一番遠くにあるバックネットの向こうなあるボードに当たって返ってくる音や、遠くにあるマンションの上の階の壁から跳ね返ってくる音でモニタリングをしていた。自分の耳近で、包まれるようなボワッとした響きを増やすことを最優先したのではない。

彼に言わせると、きっとこうなのだろう。


「それがどんなにいい音であっても、コンサートホールの上階の一番後ろの席に届かないのなら、何の意味もない。到達ことが一番大事で、そんな音こそが良い音でしょう」


尾道市の瀬戸田にあるベル・カントホールにて金管五重奏コンサート。レッスン。

夕べ義理の母親から聞いた話ですが、コース料理の場合、一番最後に食べたものの味が一番美味しく感じられることが大事なのだそうです。つまり人は食べていくにつれ、味の濃度には飽きていくのだから、前菜が薄く始まるのは当然で、それが美味しくても最初から濃いものでは駄目。そう計算されてなくてはならないと。 音も料理も到達を最優先する価値観の奥深さと、その選択に向かう律すべき姿勢の難しさに感じ入ってしまいます。

posted by take at 14:13| 活動報告