2015年10月11日

化けていくために


「あの学生、三年の後半で大化けしたんだよね。きっと何かがあったんだね」

最近話題に上がる名手。きっとそのタイミングで、周りが驚くほどプロっぽく上手くなったのだろうが、きっとそれまでも小化けはしてたのだろう。何かあったというのも、もちろん価値あるアドバイスや出会いがあったのかもしれないが、それも含め、きっとスキルのポイントがたまって、そのカードを使って公認名手へと変貌したということだと思う。



今の僕の教育の柱は、とにかく

「自分で自分を変える力を宿してもらう」

ということに尽きる。出来る限りいろんな個性、いろんなスキルの人が、もれなくそうなるような環境作りだが、なかなかそうできない学生もいる。

少しずつ変わっていってはいる。レッスンの成果、周りからの刺激を利用しながら。しかし、前出の学生のように、細かく自分を変えながら、ある時大きく変貌するようなタイミングはついぞ迎えぬまま卒業していく者もいる。

大抵大きな癖を抱えており、自然に吹くだけの余裕がなくいっぱいいっぱいになっており、周りとの差にコンプレックスも抱えそれに支配されてしまうと、自分を変えるためになければならない

“冷静な眼を装備する探究心”

は宿らなくなるようだ。


学生時代だけの話に限らず、例えば同じ名手でも

・初期の段階からまことにスタンダードに上手かった

という人と

・最初はまあまあだが、小化け、大化けを繰り返しながら、長い時間をかけてスタンダードな名手へ向かって変わり続ける人


だったらどちらが良いか。まあ周りにとっては、上手いならどちらでも良いのだろうが、やはり変わり続けることが出来る人の方が、より充実した音楽人生になるのではないだろうか。


常に自分に課題をもつのは全ての名手の特徴だが、細かく変わり続けるというのは、自分のスタンスへの、信頼と疑問の両方を持つことが出来る人にのみ訪れること。

そのこと自体は、何気に難しいことだと思う。

「自分はこういうスタイルが好きだし、それが得意だからそれでいければいいや」

というのは、必要かつ向かいやすいメンタル。そこから更に “プラス脱却” という気持ちを足すためには、やはり常に謙虚であり、様々な趣向、魅力に対する憧れをあきらめないという、しんどい生き方でもあるから。


それでも、変わり続ける人生の方が幸せだろう。

変わるための自分の見つめ方、これを宿すシステム。強力に憧れ探しています。


ブロカート。

posted by take at 17:29| 活動報告

2015年10月10日

遠達性


音を出すとき、どういう響きを求め、どういうレスポンスを求めるか。その感覚として、

“遠達性優先”

という意識は凄く大切だと思います。

どうしても自分の音は、楽器の間近でしか聞けないため、離れた場所でいい音で聞こえることが大事だとわかっていても、自分の耳に心地好いものを求めてしまう。

そのこと自体は当然だが、例えば極論のような話、

“遠くでいい音に聞こえるものは、近くでは汚く感じるものだ”

というのが現実だった場合、本当に遠くでの価値を最優先できるだろうか。

プロの演奏家としては当然そうあるべきだが、必ずしも徹しれないかもしれない。(勿論、近くでは汚い方が良いという現実はありません)

しかし、自分が自分のたち位置での聴衆の耳に徹して求めてしまい、聞きたい響きやサウンド、レスポンスを求めてしまったなら、結果遠くではそう聞こえてはいない、ということになる可能性は極めて高い。

そうならないために、遠達性、遠くへ届くような吹き方、レスポンスを求める、そのこと自体を優先することは、凄く大事なのではないだろうか。


楽器の製作、練習の仕方、そして自分のサウンドの選択の柱にそれがあるべき。ある意味、優先ではなく

“最優先”

しても良いのかもしれない。

一番遠くへ届く音こそ良い音。遠くへ届く道具こそよい音が出る道具、みたいな。実際世界中で強く求められている楽器は、遠くでのモニタリングの結果こそを一番優先しているのだと思います。そこが二の次三の次になり、奏者の近場での印象を優先すると、結果需要は減ると。

そしてこれは道具への欲求のみならず、私たちの日常のトレーニング、音への理想にも必要なこと。

僕が知る限り、遠達性を最優先しているプレイヤー代表はチューバの池田君。彼は荒川の土手で、反対岸の更に向こうの野球場の更に一番遠くにあるバックネットの向こうなあるボードに当たって返ってくる音や、遠くにあるマンションの上の階の壁から跳ね返ってくる音でモニタリングをしていた。自分の耳近で、包まれるようなボワッとした響きを増やすことを最優先したのではない。

彼に言わせると、きっとこうなのだろう。


「それがどんなにいい音であっても、コンサートホールの上階の一番後ろの席に届かないのなら、何の意味もない。到達ことが一番大事で、そんな音こそが良い音でしょう」


尾道市の瀬戸田にあるベル・カントホールにて金管五重奏コンサート。レッスン。

夕べ義理の母親から聞いた話ですが、コース料理の場合、一番最後に食べたものの味が一番美味しく感じられることが大事なのだそうです。つまり人は食べていくにつれ、味の濃度には飽きていくのだから、前菜が薄く始まるのは当然で、それが美味しくても最初から濃いものでは駄目。そう計算されてなくてはならないと。 音も料理も到達を最優先する価値観の奥深さと、その選択に向かう律すべき姿勢の難しさに感じ入ってしまいます。

posted by take at 14:13| 活動報告

2015年10月09日

ろうかを走らない


小学校でも中学校でも

「ろうかを走ってはいけません」

と言われました。ろうかなるもの、ゆっくり歩けということだった。


ベテランプレイヤーでのアンサンブルの楽屋は、ご多分に漏れず、病気の話、薬の話、健康管理の話が多い。

視力、歯、痛風、顔面麻痺といろんな方向へ話が飛ぶ。みんな真面目に知識を披露し、知識を吸収しようとしている。

ふと若手(40代)に

たけ「あー、君たちには悪いね。病気の話ばっかりで」

と投げると

「いやいや、僕らも会うとその話ばっかりですよ」

と真顔で返ってきた。

特に老眼の話は盛り上がる。読めない見えないわからない。昔は見えたわかった全部読めた。

見えなくなってからは速い。どんどん見えなくなる、どんどんボケると。


小学校の頃から、先生にろうかを走らないようにと言われていた。ゆっくり歩けと。確かにあの頃から言われていたのに、みんなして

「老化速いよなあ」

という感想しかでてこない。

「あんなに若い頃から、あんだけ口酸っぱく言われてたのにね。しょうがないよね。実際へらへら笑いながら走ってたんだから」


子供たちよ。ろうかははしゃがずゆっくり歩きなさい。昔から走ってたおっさんが言うんだから間違いない。老化を走ると、確実に怪我するから。


金管五重奏。尾道にて、小学校コンサート。

posted by take at 23:58| 活動報告

2015年10月08日

見え過ぎちゃって、困らなあい

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最近は商品として扱っている楽器店もあるようですが、知らなかったので、僕はマイスターに作ってもらいました。

アパチュア、バズィングが見えるマウスピース。レッスン用に6ハーフを2本と、1ハーフを1本。

池田君は、バズィングで音程を作り、曲を吹いてみてタンギングと指が合致させるトレーニングに使っていると。

僕もギルマンさらってみましたが、なかなかいい感じです。

天才黒金君にもいろんな音域を吹いてもらい、普段は見えない部分を見せてもらいました。

なかなかに面白いものです。特にハイトーンやペダルのアパチュアの形は興味深いものでした。

様々な癖に悩む生徒たちの光明への新しい道筋、その道具になり得ればと期待しています。


N響、本番。
写真、見苦しくてすみません。

posted by take at 00:07| 活動報告

2015年10月07日

人による


今朝、『世界ヒゲコンテスト』 が開催されたというニュースをやっていた。

なんだか凄い世界です。何十センチにも伸びたヒゲをあれやこれやデザインし、何時間もかけてセットし、女性たちの審判を仰ぐ。僕にはほとんどの人が、口周りにタコをつけているようにしか見えなかった。タコ足のようにまとめたヒゲの束が、四方八方に真っ直ぐクルクル放射状にひろがっているのだ。長い時間かけ蓄え、長い時間かけセットした彼らは大真面目なのだろうが、審査員の女性たちはどう思ってジャッジしてるのだろう?

“まあ素敵” それとも……



チャンネルを変えると、イギリスのメディアが行ったアンケート 『世界一セクシーなヒゲは?』 というのをやっていた。今日9月20日はヒゲの日なのか??

ランキングには、ジョージクルーニーやベッカムが。そして一位はやはりイギリスならでは。ヘンリー王子が。

で、口々に「かっこいい」なんて言ってるスタジオの女性たちに、司会者が、

「男性のヒゲ、好きですか??」

と定番の質問をしたところ、やはり定番の答えが。

女性ズ 「人によります」

まあテレビの前は全員 「そらそーだろー」 とつぶやいたでしょう。ただどうでしょうか、ヒゲを生やしてもみっともないだけの僕からすると、

「本当にヒゲが生えている“方が”好きかい?」

と聞きたくなる。本当は生えてないのがいいけど、生えてるのもいい、力の象徴として生やしたがるヒゲに対し、リップサービスもあるんじゃあないか(ザ・ヒガミ)。


今日書きたいのはそんなこっちゃない。例の 「人による」 だ。

このセリフが活躍するフィールド、その代表選手はセクハラ界でしょう。セクハラと認定されるかどうか、その査定における最有力材料は男性の言動、その瞬間的内容ではない。その人に対する女性の不快度、それは男性の日常のあらゆる表現、アプローチが作る関係性に、既に全て盛り込まれている。セクハラ判定が始まるのは、そんな十分な前置きあってのこと。

不潔で下品で攻撃的、非常識で無配慮、無良識、無良心、無愛な男性なら(ハゲ・デブ・チビではない!)、ほんのちょいとしたことでもセクハラ認定だし、結婚しただけで事務所の株価が下がり、本人の株はその圧倒的実力だけを披露した福山雅治なら、下ネタもおさわりも大歓迎となる。

福山雅治ならひょっとこみたいな表情をしてもカッコいいとなるし、ひょっとこみたいな顔の人がすましてみてもカッコいいとはならない。納得いったりいかなかったりだが、でも人による。


そう、人による。


しかしセクハラに限らないですね。人との付き合い、自分の言動の全ては、相手との関係性により変わるものです。

「相手によって態度変えちゃいけないんじゃないですか?!」

その通り。でも100パーそうではない。子供に話すのと目上の人に話すのが違うように、私たちはいろんな相手に対して言動のマイナーチェンジは日常頻繁におこなってます。ただそれが第三者から見て、いかにも利己的な腹の中が見えているものだと、非難の対象になる。

相手によって態度を変えるのには理由がある。人によって、同じことをしても評価が違うのにも理由がある。


ひげやファッション等見た目に関しては、似合っていることと(自己評価ならぬタコ評価)、市民権を得るまで貫く一本気でしょうね。

人間性は……さっきの逆ですか。不潔で下品で攻撃的、非常識で無配慮、無良識、無良心、無愛の逆。

勿論、ハゲ・デブ・チビではない。飲み会で女性から出たこれらの言葉。そこにいたほとんどが、恋愛対象としてそれは気にしない、査定の材料じゃない

「人による」

と言ったのですから。


N響練習。川越へ。

posted by take at 15:08| 活動報告